建武三年(1336)十一月七日、足利尊氏が「建武式目」を制定し、室町幕府が事実上成立した。尊氏の嫡子義詮は事実上、鎌倉の総師、鎌倉公方になるが、後に将軍となる為、初代鎌倉公方として名実を残さず、弟の基氏が初代鎌倉公方・関東公方として位置付けられている。
元徳二年の(1330)生まれの義詮は、この時七歳であった。義明を補佐した関東管領は足利庶流の斯波家長(しばいえなが)であった。幕府の将軍を補佐する「管領」に対し鎌倉公方を補佐する呼称として「関東管領」とされたが、後に役職名になり、任命権は京都の幕府により任命された。また混同されがちな「関東執事」と言う呼称があるが、執事は政所の執事を指し区別されるものであり、鎌倉府において任命できた。
(写真:鎌倉浄妙寺)
南朝側の奥州経営は、北畠顕家を中心に行われており、建武の乱で、顕家の一度目の上洛は多賀城(宮城県)から近江愛知川までおよそ八百キロを二十日の強行軍であったが、鎌倉府は対抗の術がなかった。建武四年(1337)十二月、北畠顕家の二度目の上洛の際、鎌倉周辺で激戦を行い、斯波家長は敗死するが、通説では、それが原因で新田義貞の合流が出来ず、顕家側の軍に大きな損害を与えたとされる。そして上洛した北畠顕家も翌年、和泉国堺浦石津で戦死した。
畿内での南朝側の抵抗が一時的に弱まると延三年/暦応元年(1338)六月に関東管領として上杉憲顕が下向するが、十二月に義兄(憲顕の父憲房の養子)の重能が突然の出仕停止を受け憲顕は急遽帰京する。上杉重能は、尊氏が後醍醐帝に恭順を示すため出家まで考えた際、弟直義と共に偽の綸旨を使い、「出家したとて後醍醐帝の勅勘は、免れない」事を説得させ、竹の下合戦に出陣させて新田軍を総崩れにさせる勝利を得させた人物である。この出仕停止には高氏が働いたと考えられている。
(写真:鎌倉浄妙寺)
上杉氏は本来公家の出身で、藤原氏勧修寺流の庶流で朝廷の侍臣であった。上杉氏は藤原氏勧修寺高藤流の朱里大夫重房が丹波国上杉荘を所領としたことに始まる一族である。保元の乱では重房の祖父盛憲は藤原頼長の近侍であり佐渡に流罪。承久の乱では重房の父清房は後鳥羽天皇に従事していたため後鳥羽と共に隠岐へ流罪に同行。上杉氏は天皇家の政争に巻き込まれ翻弄され不遇な一族であったが、実務官僚として評価されていた事で、政争に巻き込まれた一族と言える。
上杉重房も同様に実務能力は評価されており、不遇を断ち切る為に建長四年(1252)鎌倉幕府六代将軍となった宗尊親王に供奉して鎌倉に下った。その後、丹波何鹿群(いかるがぐん)上杉荘(京都府綾部市)を与えられ、上杉氏を称し武家となった。憲顕はその重房から頼重―憲房―憲顕と続く四台目である。鎌倉幕府時において北条家に次ぐ足利氏と婚姻関係を結び勢力を拡大していった。尊氏・直義兄弟の母は上杉頼重の娘清子であり、従弟関係にあたる。上杉憲顕の父憲房は鎌倉末期から建武新政期にかけて、尊氏に忠節をつくした。元弘三年(1333)の尊氏が鎌倉幕府に対し反旗を挙げ挙兵した事は憲房の薦めによるものであったと『難太平記』に記されている。
(写真:鎌倉報国寺)
直義と上杉憲顕とは従弟で同年の生まれの為、建武の新政期の時から直義側におり、政治姿勢が似ていたとされ、心からの信頼関係が生まれていた。兄重能が突然の出仕停止を受けた後憲顕の計らい、直義の執事的存在として働いたと考えられ、後に一番引付頭人や内談方頭人として就くが、これは直義の計らいであったと考える。その後、憲顕は鎌倉に戻り関東管領職に戻るが、九月に北畠親房が常陸に入り関東の南朝方の抵抗は激しさを増し、憲顕は実務官僚であるため度々辞任を申し入れていた。暦応二年(1339)後任として高師冬が後任として関東管領に就いている。常陸合戦を遂行し南朝方を掃討して鎌倉に戻ったのが康永三年(13444)二月であり、憲顕は鎌倉に残った義詮を補佐する為に再び復職するが関東管領職は上杉憲顕・高師冬の二人体制であった。しかし、高師冬は一時的に南朝勢力の鎮静化を行う目的であったと考えられ、翌年職を解かれ上洛している。
(写真:鎌倉報国寺)
足利執事の高氏は師冬の曾祖先父重氏が家祖とする一族で、源義家の東国下向に従った家臣高階惟章の子孫である。義国の故義康を祖とする足利との関係はその時から、密接で重氏も祖父惟長以来、足利氏の惣領との執事を務めた。両者の関係の深さを示すように。足利家菩寺の樺崎寺には高氏の菩提を弔う五輪塔が残されている。講師はその伝統的な立場から軍政面を担当し尊氏の側近とされた。高師直が北畠顕家を和泉国堺浦石津で討ち、高師冬は常陸合戦で勝利を導く、また四条畷の戦い楠木正行を打ち武名と権勢を高め婆娑羅の典型的な武士となる。しかし高氏は足利尊氏の執事としての立場が高氏の率いる軍勢の強さに関係していた。また将軍に集まる新政及び嘆願が高氏に集中し、逆に尊氏からの命令等は高氏を経由していくのである。さらに、師泰が武士を統制する侍所の頭人に就任すると、軍事や恩賞面に関する事での発言力を強めていった。これらの高氏の躍進により尊氏の立場は安定し、高氏の立場を向上させていった。
上杉との関係において上杉頼重の娘が高師泰の妻で。上杉憲房の娘(憲顕の妹)が高師秋の妻となり姻戚関係を保っていた。しかし、婆娑羅大名としての高師直、師泰兄弟を対する批判は、その後公家や僧侶が批判するようになった。この様な形態は鎌倉期における北条得宗家の得宗被官人と同様な結果を必然的に生む。直義は、婆娑羅を嫌い、そのことを考え、得宗被官と同様な結果も予測したと考えられる。幕府内での直義と高氏の対立は高まっていくが、外戚関係の上杉と足利家執事の高氏の対立が内包されている。
(写真:北鎌倉長寿院)