建武三年(1336)八月十五日と豊仁親王が践祚(せんそ)され光明天皇となり立太子に後醍醐帝の皇子成良親王が擁立された。その二日後、足利尊氏はみずからしたためた願文を清水寺に奉納した。「尊氏に道心を与え給うて、後世を助け給え。今世の果報を直義に与え給うて、直義の身を安穏に守り給え」と、この願文は尊氏の本心であったと考える。同十一月七日に建武式目が制定され、室町幕府が成立した。延元三年/暦応元年(1338)に尊氏は征夷大将軍、直義は佐兵衛督に任じられた。京都で室町幕府では尊氏と二頭政治を行った。当時、実際にこの二人から文書が発給され、人々は両将軍と認識し、尊氏は恩賞授与や守護職の補任等、武士に対する主従制支配権を掌握し、直義は訴訟裁判権を基礎とした行政権、統治権的支配権を掌握し政務担当者として二頭政治を行っている。
興国二年/暦応四年(1341)三月二十四日には出雲・隠岐国の守護である塩路高貞が突如京都を出奔した。直義は謀反人と責め桃井直忠・山名時氏を大将とする追討軍を派兵し、全国に向け「高貞陰謀が陰謀を企てた」と公式に宣言し近隣地域の武士に追討令を発している(『師守記』暦応四年三月二十五日条)。直義の早急な対応により高貞は播磨国神東軍蔭山荘影山で二十九日までに自害した(『師守記』暦応四年三月二十九日条)。その残党も多くが幕府軍に討ち取られている。これは直義の警察権の行使でもある。
塩路高貞は鎌倉時代から出雲国の守護を務めた家系で宇多源氏の名門佐々木氏の傍流で遠い親戚筋にあたる佐々木堂誉と共に婆娑羅大名であった。元弘の乱で後醍醐帝の挙兵に呼応し、鎌倉幕府との戦いに貢献、建武政権にも貢献したため隠岐国の守護にも任じられている。建武の乱では当初後醍醐帝側だった。建武二年(1335)の中先代の乱後、後醍醐帝と足利尊氏との間で建武の乱がおこり、新田義貞に率いられる討伐軍に参陣したが、箱根・竹之下の戦いで新田軍群を裏切り、足利方に就き、勝利に貢献した武士である。
(写真:島根県八重垣神社、神魂神社:かもすじんじゃ、本殿は現存する日本最古の大社造りで国宝)
この謀叛については記載がなく、諸説あるが、鈴木登美恵氏は、『太平記』では高貞の妻が後醍醐帝外戚の早田宮の娘で、もともと後醍醐帝の後宮(皇后や妃などが住む宮中奥向き宮殿)に入っていたときされている。ご嵯峨天皇の孫の早田宮真覚で、その娘が妻であれば真覚の実子は後醍醐帝の猶子にした南朝公卿の左中将源宗治であり義兄弟にあたる事になる。そして、宗治は征西将軍として九州に下った懐良親王を補佐したのが源宗治である。九州は出雲にも近く、山陰の石見国には南朝方の日野邦光らが参戦しており、この頃南朝方は勢力を回復しつつあった。特に九州・中国地方において。出雲においても南朝に与する武士が増えていた。これらの事により高貞は源宗治に内通し南朝に寝返ったのではないかと推測される。
(写真:京都建仁寺)
直義の施政において仏教界にも及んでいる。鎌倉での禅宗寺院に与えた五山の称号を康永元年(1342)京都においても「五山十刹」の称号を与え南都北冷の旧仏教勢力をけん制する意図があったとされる。貞和元年(1345)、光厳上皇が幕府の奏請により国ごとに建立した寺院等を安国時・利生塔と名付ける事を決定した。これらは元弘の騒乱で犠牲になった人々を弔うためとされ既存の寺院が指定され安国時と改名した場合が多かった。主に各国守護の菩提寺や五山は寺院であり、守護の国内統制を補助する役割を担っていたとされる。これは立法権の行使にあたる。
(写真:京都建仁寺)
武士に対しては貞和二年二月五日と十二月十三日の二度に渡り「故線防戦」の停止を命じている。これは紛争を武力により解決しようとした場合、戦を仕掛けた(故戦)方はいかなる理由があっても処罰し。戦を仕掛けられた方は(防戦)は正当な理由があれば無罪とし、理由が無ければ処罰すると言うもので武士が実践して来た伝統的な「自力救済」という問題解決方法を否定・禁止する法令であった。鎌倉期においては実質、秩序統制と訴訟制度が安定していた時期はあまり見られなかったが、室町期には入り各地の武士が力を持ち、特に足利庶流の武士は婆娑羅化(ばさら)して行き、この様な法令が必要とされ、室町期の特徴である。二度目の十二月の発令においては処罰がより厳しくなったとされ、「一揆」や「党類」を率いて合戦する事も重罪として禁止した。背景には足利庶流の武士や、かつて名を馳せた武士たちが土地や守護職を巡り紛争し、南朝が関与するという騒乱の負の連鎖を形成していた時代であった。建武式目の「倹約に努める」の箇所には婆娑羅という行いを強く禁止している。鎌倉散策 足利直義、四「養子直冬と猶子基氏」で婆娑羅大名は伝統・秩序から解放された大名で、尊氏側の足利庶流の武士はほとんどが婆娑羅であり、高師直・師泰等らが知られている。と説明したが、もう少し詳しく述べると「婆娑羅」は戦乱中、実力で下からのし上がって来た者が豪華惇聯絢爛な衣装をまとい傍若無人な振る舞いをする事を言う。この時代の新興勢力で従来の既得権益層の公卿や天皇は特に嫌い、また婆娑羅はその旧来の権威に対して強い反発を示した。美濃守護に就いていた土岐頼遠が光厳上皇に狼藉等において社会問題化していた。
(写真:鎌倉報国寺)
室町幕府の足利尊氏側の執事の武士や守護に就く武士の多くが婆娑羅であり、鎌倉末期の幕府崩壊の要因の一つとなった悪党・有徳人が守護になるようなものである。得宗被官人と同じような立場であるが得宗被官人の場合は秩序を維持する側であった点、室町期の足利庶流の婆娑羅は伝統・秩序から解放され、室町期における秩序の回復は非常に難しい面を持っていた。これは幕府以上に足利庶流の武士、及び各地の武士の勢力が強かった点があげられる。その結果、三代将軍義満の時代に南北朝の講和が成立した一時期を除いて、騒乱を繰り返し戦国時代に移行していく。建武式目で直義の意向が多く組み入れられた事は、婆娑羅を最も嫌い、婆娑羅により政権が崩壊する事を悟っていたと思われる。
(写真:ウィキペデイアより「英雄百首」足利直冬(歌川貞秀画)、報国寺やぐら)
貞和四年四月に紀伊国方面の南朝方掃討を行うため、直義は直冬を派遣し功績をあげ帰洛している。その軍巧に対し尊氏側は冷淡であり、直義は直冬を長門探題として下向させた。直冬は足利尊氏本流の勢力になりえたが、直義の求めた政治を尊氏は理解できなかったようである。正平三年/貞和四年(1348)頃から足利家の執事を務める、まさしく婆娑羅大名である高師直と対立するようになり、幕府を直義派と反直義に二分する観応の擾乱に発展する。また南朝方も、この混乱に乗じ勢力を強めた。 ―続く