鎌倉散策 足利直義、四「養子直冬と猶子基氏」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 足利尊氏には早世した若竹丸(側室、足利庶流の加古基氏の娘)、)直冬(側室越前局)、義詮、基氏、娘鶴王(義詮、基氏と同じ母、正室の赤橋登子)他子を儲けていた。直義は、兄尊氏の子息と因縁じみた関係を持つ。

 

 義詮とは元弘三年/正慶二年(1333)十二月から鎌倉府将軍として当時七歳の成良親王を奉じて尊氏の分身のように鎌倉府の執権となった時から、尊氏の嫡子義詮四歳は直義とともに鎌倉で一年半ほど共に過ごしている。建武二年(1335)七月十三日に北条高時の遺児時行が中先代の乱が起こし、鎌倉に向かう。直義は武蔵国町田村井出の沢(現東京と町田市本町田)の合戦で迎え撃つが、敗退し、時行の軍勢が鎌倉に迫ると成良親王九歳と尊氏の嫡男義詮六歳を連れ鎌倉を脱出し三河国矢作(愛知県岡崎市)へと逃れた。そして成良親王は、すぐに京都に無事に送り返される。この東海道沿いは伊豆、駿河、遠江、三河、尾張の国は足利氏庶流が守護し、比較的安全な地まで退却したことになり、すでに鎌倉を脱出した際に兄尊氏に援軍を要請したとみられる。その地で成良親王を京に返すことは考えられるだろうか、尊氏が援軍に来れば、この地での戦の勝利は確実である。成良親王を京に返すことは、直義が後醍醐帝の建武政権をここで断ち切ったのではないだろうか。尊氏の後醍醐帝に反旗を向けさせたのも直義であり、再び義詮を鎌倉に留まらせた事は足利による鎌倉府の基礎を築き、室町幕府成立の出発点になる。尊氏よりも冷徹に足利一門と武家のその後の世を見据えていたのかもしれない。

 

 直義は当時、子供がおらず、尊氏の子息、直冬を養子とし、基氏を猶子としている。生誕は不詳であるが、瀬野精一郎氏の『足利直冬』吉川弘文館において、『足利将軍系図』から直冬は嘉暦二年(1327)生まれで、父足利尊氏、母側室越前局とされる。尊氏が若い頃に越前局と言う出自が分からない女の所に忍び通い生ませた子であるとされ、「尊卑分脈」によると幼名は信熊野(いまくまの)と号した。幼少時から尊氏に認知されず、鎌倉の東勝寺で喝食(かつじき/かっしき:禅寺で斎食を行う際に衆僧に食事の順序などを大声で唱える者)をしていたとされるが、東勝寺での僧侶としての直冬の記録は残されていない。後年の行状から見て僧侶としての修行に専念していたとは考えられず、問題児であったとされると述べられている。『太平記』によると興国六年/貞和元年(1345)頃に還俗し、東勝寺の円林に伴われ上洛している。そして、秘かに尊氏に対面を求めたが拒絶された。直冬は、当時公家等に宋学・古典を講じていた独清軒玄慧法印の所で学んでおり、独清軒玄慧法印は見どころがあると直義に相談したところ、面会し引き取ったとされる。

 

(写真:鎌倉長寿院)

 観応の擾乱以降、認知を認めない尊氏との確執の為か徹底した対立と抗争を繰り広げ、南北朝時代を激化させた。しかし、尊氏の死後は勢力が衰え備後宮内合戦を最後に消息不明となっている。直義は幕府成立時、実権を持っていた頃には南朝討伐に直冬を起用、光厳上皇から従四位下佐兵衛佐に叙任され、討伐軍の大将として院宣を得て初陣を飾らせている。その討伐において、南朝方を破り大きな戦功を立てている。しかし、尊氏側は冷たい態度だったとされるが、直義側や一部の武将から高く評価された。この一件が尊氏や義詮に対しての憎悪の一因とされる。また、直義の提案で直冬を長門探題に就かせている。この件について諸説あり、直義は直冬が京に留まり尊氏側の反感をこれ以上与えないための説。直義の鎌倉府の西国版を構想していたとする説。直義が対立する高師直に東西から対抗する説。そして、尊氏が室町幕府では設置していなかった長門探題を復活させ直冬を遠ざけた説等がある。しかし私自身、直義を見る限り自身の鎌倉府の西国版の構想により、直冬の事を考え長門探題に就かせたと考えたい。

 

(写真:京都仁和寺)

 直義は尊氏の次男基氏を猶子(養子と異なり、財産等の継承・相続を目的としておらず、一種の後見人としての役割を果たす)にしたとされ系図上にも多く記されている。基氏は興国元年/暦応三年(1340)四月二日生まれで幼名を光王・亀若丸とされ、基氏に改名していた。基氏は幼少のころから直義に育てられたと言われる。観応の擾乱が起こると尊氏は鎌倉にいた嫡男義顕を京都に呼び戻し、時期将軍としての政務をおこなわせ、義顕の代わりに正平四年/貞和五年(1349)に鎌倉公方として次男基氏(十歳)を下向させ初代鎌倉公方とし鎌倉府を機能させた。義顕の時代から補佐役として当初執事を任されたのは上杉憲顕で、執事の名称が後に関東管領と変わる。鎌倉公方に就いた基氏も同じく憲顕が補佐し、この時から管領制が用いられ憲顕と高師冬の二人が任命された。そして、貞治二年/正平十八年(1363)以降は上杉氏が独占的に任命されるようになる。また、直義は甥の直冬を養子に迎えた後、正平ニ年/貞和三年(1347)に正室渋川貞頼の娘の間に実子如意丸(にょいおう)が生まれたが、正平六年/観応二年(1351)観応の擾乱中に早世している。基氏は実父尊氏よりも直義や上杉憲顕を尊敬しながら幕府と協調関係を強めた。

 

(写真:京都仁和寺)

 時をもどすが、興国三年康永元年(1342)九月六日、美濃守護に就いていた土岐頼遠が光厳上皇に狼藉を働き捕らえられた際、頼遠の軍才と数々の武功により、助命嘆願が上がったが、朝廷の権威を重んじ、耳を貸さず頼遠を六条河原にて斬首している。これは光厳上皇の権威を重んじ軽視ないし容認すれば上皇から与えられた征夷大将軍と室町幕府の権威も否定する事であり、情に流されない、冷徹な判断を下したとされる。頼遠は、いわゆる婆娑羅大名の一人として知られている。婆娑羅大名は伝統・秩序から解放された大名で、尊氏側の足利庶流の武士はほとんどが婆娑羅であり、高師直・師泰等らが知られている。しかし、本来は、土岐氏は断絶するはずであるが存続を許され家督は甥の土岐頼康に継承させた。そして、頼遠の子息たちは本巣郡(現岐阜県本巣市)に移り土着したと伝わる。これは夢窓国師の助命嘆願でもあり、直義は「国司(夢窓)の口添えならば頼遠は厳罰とするが土岐子孫は許す」とした。直義は不器用な人間であったが、物事を「道理」でとらえ論理的に構築し、人に対し適切に能力の評価を下し、適切に対応した人物であったと考える。

 

(写真:鎌倉鶴岡八幡宮)

 正平・三年/貞和四年ころから足利尊氏の執事で有る高師直と直義は対立するようになり、観応の擾乱へと発展して行く。尊氏、直義兄弟は仲の良い兄弟であったが、観応の擾乱(じょうらん)で袂を分ける事になる。 ―続く