鎌倉散策 足利直義、三「尊氏再挙と室町幕府成立」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 建武三年二月十一日、摂津豊島河原の戦いで新田軍に敗れた足利尊氏は播磨国に刻赤松則村の助けを得て、再興をかけて九州に下った。三月初旬に少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像(現福岡県宗像市)を本拠とする宗像氏範らの支援を受け、二千騎ほどで南朝方の菊池武敏・阿蘇惟直の軍勢二万騎を筑前国多々良浜(現福岡市東区)の合戦で破っている。周辺の武士は勝馬に乗る為、戦前において南朝方が有利とされていたため与した武士で、九州の武士に対する新政が進まず、不満を抱いた武士は、むしろ尊氏側に近く、寝返った為とされる。この多々良浜合戦の結果、九州の諸豪族の集結に成功した。足利尊氏が、この戦いで阿蘇惟直を討ちとり、寝返りを誘った戦略を見逃すことが出来ない。尊氏の豪快な人望と、直義の論理的な交渉が導いた結果であると推測する。しかし、少弐頼尚が急襲され自害する事となった。北畠顕家が京を離れ、多賀城に戻る間に尊氏が再挙して、九州から北上する。

 

(写真:ウィキペデイアより足利尊氏像と足利直義像)

 新田義貞は延元元年(1336)三月六日から足利尊氏追討の為、播磨の赤松円心を攻撃するが、円心は播磨最西の白旗城で籠城戦に持ち込み偽りの降伏場などを差し出しながら絶えた、その日数は五十日で義貞に時間の浪費をさせ、尊氏が九州から再挙する余裕を与え、義貞の防備もはかどらなかった。五月二十五日、尊氏に対し北畠顕家と共闘していた楠木正成、新田義貞の軍が摂津国湊川の戦で敗れ楠木正成は討ち死にしている。正成は遊撃戦においては最高の戦術家であるが、湊川の戦いは、その術を使う地ではなく、正成は尊氏を京都に引き入れ、包囲する策を提案したが却下されていた(『吾妻鏡』十六巻七正成兵庫に下向し子息に遺訓の事に記載)。義貞は帰洛し、三種の神器を持たせ後醍醐帝を叡山に向かわせる。東寺の合戦で敗れ、後醍醐帝から越後国に向かい再挙するよう言い渡されたと言う。

 

(写真:京都東寺)

 六月十四日、尊氏が再挙して光厳上皇を奉じ入京する戦で、後醍醐帝は千種忠顕、名和長利等の側近であった者等が討たれ、和睦を結ぶ事になる。しかし、その和睦案は皇位を大覚寺統と持明院統が交互に継承する両統迭立の復活であった。八月十五日と豊仁親王が践祚(せんそ)され光明天皇となり立太子に後醍醐帝の皇子成良親王が擁立された。この和睦に後醍醐帝は不服であったとおもわれ、九月十八日には懐良(かねよし)親王を征西大将軍に任じ讃岐国へ向かわせ、新田義貞には皇子経良親王・尊良親王を越後に向かわせる。越後の国司である義貞に北陸地方を拠点に「北国官領府」という地方権力を樹立させ再起をかけた。

 

(写真:京都御所)

 尊氏は自身が朝敵としての汚名を晴らすため持明院統の光明天皇を立て尊氏が十一月七日に「建武式目」を制定している。「建武式目」は明法家(法学者)の是円(中原章賢)・真恵兄弟に諮問・答申形式で書かれ、二項十七条(聖徳太子の制定した十七条憲法に影響されたとも)の武家政権の基本方針を示した。鎌倉幕府三代執権北条泰時が制定した「御成敗式目」とは異なり、法的拘束力を持つ法令ではなかった。

 「建武式目」の第一項に「鎌倉如元可為柳営歟、可為他所否事」を設問し、要約すると「幕府は鎌倉におくべきかどうか。それに対し政道のよしあしは居所のよしあしによるものではなく為政者のよしあしによるものであると述べ、人々が望むなら鎌倉に幕府を置く事もかんがえるべし」と言った内容で、土地よりも人が重要で、間接的に京都に幕府を置く事を示唆している。第二項においては鎌倉幕府の文治の源頼朝の幕府成立・承久の北条義時の武家政権の確立を記し足利氏による室町幕府の正統な後継者であることを示した。追記・あとがきには「遠くは延喜・天暦両聖ノ徳化ヲ訪(とぶら)ヒ、近クハ義時・泰時ノ行状ヲモッテ、近代ノ師トナス」と記され、北条得宗家前の武士の政治を施政する事を示した。

 

(写真:鶴岡八幡宮)

 「建武式目」の制定には直義の意向が強いとされている。通説では、尊氏はどこに幕府を置くかは、あまり問題としていなかったとされ直義は鎌倉にて幕府を置きたかったようである。関幸彦氏の『その後の鎌倉』に「直義は「道理」への意識を保持した人物として知られる。武家が規範化した道理の極致は“何人たれども、正当な理由なくして、事故の領地への侵略は許されない”と言う事だった。…「道理」とはこの不変の真理であり。武家が求めたものはこれであった」と記されており、後醍醐帝の律令制を復興するような建武新政とは異なり、直義は朝廷との距離を置く為に幕府を鎌倉に置く必要性があったと私は考える。

「建武式目」の制定により建武政権は事実上崩壊し、実質的に室町幕府を成立させた。尊氏はこれにより後醍醐帝と一時和睦を結んだが、後醍醐帝はそれを破棄し、北朝と南朝の内乱が起こる南北朝時代に入る。そして、その後の五十七年間の南北朝時代の抗争が続くことになる。その後の室町期においても多くの抗争が続き戦国時代へと移行した。

 

(写真:後醍醐天皇)

夢窓疎石は、尊氏の性格について三つの徳があったと言う。第一に戦に際して度胸が据わっていて、命が危ない時も恐れる事は無かった。第二に慈悲の心強く寛容であった。第三に気前が非常によくて、部下に物惜しみせずに武具や馬を与えた(松尾剛次著『中世鎌倉市を歩く』)。

また『吾妻鏡』に鎌倉時代の宝治元(1247)頃の武家社会では「八朔贈答(はっさくぞうとう)」と言う風習が始まり、盛んになっており、将軍への贈り物は良好間(執権。連署)の他は禁止されている。「八日朔日」から来た風習で、旧暦八月一日に本格的な収穫を前に「豊作祈願」と「田の実りをお供えする」と言う行事が各地で様々な行事として行われた。「八朔節供」「田の実の節供」と呼ばれ今も残っている。「八朔贈答」は「豊作祈願の一方「田の実」が「頼み」になり八朔には様々な贈答の風習が生まれたとされる。この室町期に入っり、この風習は残されていたと考えられる。

 夢窓疎石は足利尊氏への贈り物について「八月一日は諸人の進物が数もわからないほど多く、それを全て人に与えてしまい、夕方になれば、何があったかも覚えていなかった」と「梅松論」下で記されている。室町期では「八朔贈答」の変例も慣例化していた。しかし、直義は「八朔贈答」に対し批判的で、(「光明院宸記」康永四年八月一日条で、直義は八朔の贈り物を受けなかったと言う。

 また「光明院宸記」に光明天皇もこの行事を批判しており、「近頃のように天下は不安定で、かつ世の中の困窮の民が植えているというのに、財力の限りをもって贈り物をして、どうして民を富ませることが出来ようか」と日記に書かれている。尊氏は親分肌の武将であり、直義は能吏(のうり:事務処理に優れた才能を示す役人)的な人物であった。

 

(写真:鶴岡八幡宮)

 延元三年/暦応元年(1338)尊氏は征夷大将軍、直義は佐兵衛督に任じられ、室町幕府内では「両将軍」と称され、京都にいた兄尊氏と共に政治の根源を二分し、二頭政治を行った。尊氏は軍事指揮権を掌握し、直義は裁判を中心に日常政務を執行したとされる。 ―続く