(写真:鎌倉鶴岡八幡宮)
中先代の乱を抑え尊氏は鎌倉に入っている。当初、後醍醐帝に恭順を示し、浄光明寺で蟄居したとされるが、鎌倉の若宮大路の北条屋敷跡に新邸を造っており、足利庶流の武士たちも新邸の建設を行っている。これらの事から現在は鎌倉にて後醍醐帝に反旗を挙げる真意があったと考えられる。
十一月二日、尊氏は「関東御教書(鎌倉幕府の命令書に対する呼名)」により新田義貞誅罰の軍勢催促を開始した。さらに、新田義貞が後醍醐帝から国師に任ぜられた上野国を上杉憲房に与え、時行勢に与した武士たちの所領を今回の鎌倉攻めに尊氏に従った武士の論功行賞を与えている。また、これらの所業は直義の強い意向によるものと推測され、後醍醐帝は尊氏のこれらの行動を幕府の再興であると受け取った。また、新田義貞は尊氏追討の奏状を上奏した。
(写真:鎌倉鶴岡八幡宮)
十一月十九日、新田義貞に尊氏追討の宣旨を与えられ、尊氏追討の為、東下する。直義は兄尊氏に対し出陣を促すが、後醍醐帝に恭順を示すため浄光明寺での蟄居を続けた。義貞勢の攻勢は当初強く、直義は駿河国手越河原(静岡県静岡市駿河区)十二月初旬で伊豆国府(静岡県三島市)に達した。
『太平記』第十四巻八では、尊氏は建長寺にて出家の為、もとどりを結ぶ紐を切らせ、剃髪し、黒染めの衣を着て出家を考えていた。直義や上杉重能が偽の綸旨を使い、出家したとて後醍醐帝の勅勘は、免れない事を説得させたと記されている。これらの太平記の記事については何やら矛盾が多い点、歴史物語の様相を表している。
十二月十一日、説得に応じた尊氏は直義・上杉重能がと出陣し、関東への入り口である東海道の箱根、東山道の足柄峠で足利軍は新田軍と激突する。箱根竹之下の合戦で新田軍は劣勢に陥り、総崩れとなり京都に敗走した。勢いに乗る足利軍は追撃を行い、各地において足利軍に呼応する動きが始まり、翌三年の正月始め後醍醐帝は比叡山に逃れ、尊氏が入京した。
(写真:後醍醐天皇像と足利尊氏像)
昨年の建武二年十二月二十二日、後醍醐帝の足利尊氏追討の綸旨を受けた陸奥守北畠顕家が奥州から京都に向け出立している。途中、鎌倉の足利の軍勢を撃破し、鎌倉を攻略して翌年の建武三年一月十三、日、近江愛知川に到着した。奥州多賀城(宮城県多賀城市)から約八百キロを二十日で移動した。一日平均四十キロを維持する強行軍であり、羽柴秀吉の備中大返しをはるかにしのぐ強行である。『太平記』十五巻によると、その日、大舘中務大輔幸氏、佐々木判官時信が立てこもる観音寺城を攻め落とし、首を斬る事五百余人と記載され、一月十六日に足利氏に与した三井寺の戦いに勝利した。その勢いに乗じ京都まで攻め上るが、細川定禅の知略に義貞が翻弄され京都の奮還は失敗する。再度軍勢を建て直し、鎌倉からの尊良親王の軍二万と新田義貞・楠木正成・北畠顕家・名和長年・千種忠顕らと共に京への攻撃を開始する。この攻防戦は一月二十七日から三十日にかけて戦われ、尊氏を破り京から撤退させた。
(写真:ウィキペデイアより北畠顕家像)
二月十日から十一日にかけ豊島河原(現:大阪府箕面市三直川下流)の合戦では北畠顕家は奥州五郡の五万騎、楠木正成・新田義貞四万五千騎と共に足利尊氏勢二十万騎を破り、尊氏を船で西へ敗走させた。その時、僅か三百騎であったとも伝えられている。楠木正成は敗走した尊氏が再度京に攻め上ることを予測し、後醍醐天皇に新田義貞を切り捨て尊氏と和睦する事を勧めたが、拒絶されていた。北畠顕家は奥州に戻る。その帰途相模で斯波家長と戦うがそれを破り、五月に奥州相馬氏を破り多賀城に戻った。
(写真:建長寺三解脱門と地蔵菩薩像)
尊氏の人柄は一般的に豪快な武士を表しており、直義は理論的な事務官僚を意識する。が、一方、理論的に構築した内容においては直義の行動が尊氏を助け、この兄弟は鎌倉末期から室町幕府創立までは、非常に足利氏の体制を作るために仲の良い兄弟であったとされる。中先代の乱で窮地に落ちた直義を即刻助けに行く。これには尊氏の鎌倉への立場と、京都での立場が両立していると思われるが、戦下手の直義を助ける思いと、それが自身の存在に繋がる事であると考えたと思われる。また、浄光明寺で蟄居に就く尊氏に対し後醍醐帝に反旗を翻す、説得するのは直義であった。この対照的な二人は室町幕府で二頭政治を行う。 ―続く