鎌倉散策 足利直義、七「足利直義と高師直」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 直義は戦争状態の抑止により安定した秩序回復の為の施政を行っていた。武士に対しては、幕府の統括下に置き、武士が実践して来た伝統的な「自力救済」という問題解決方法を否定・禁止する法令を貞和二年二月五日と十二月十三日の二度に渡り「故戦防戦」の停止を命じている。これは紛争を武力により解決しようとした場合、戦を仕掛けた(故戦)方はいかなる理由があっても処罰し、戦を仕掛けられた方は(防戦)は正当な理由があれば無罪とし、理由が無ければ処罰すると言うものであった。二度目の配布は処罰をより厳しくして、「一揆」・「党類」を率いて合戦する事も重罪として禁止した。しかし、高師直等が戦での軍功と軍忠を上げる事で自身と地位確保や勢力拡大を成していた武士には反発される法令であった。当時の守護を見れば、軍功と軍忠において任命され、戦時に入ると軍勢を動員する軍事指揮官、戦後は恩賞対象となり、平時には地方行政官としての性格を有していた。

  

(写真:ウィキペデイアより足利尊氏像として認識されていたが高師直像という説も上がっている、足利尊氏像)

 この守護の任命権は尊氏が掌握していたが、延元四年/暦応二年(1339)に後醍醐帝が崩御してから南朝勢力も衰退し安定期に入ってくると、守護は地方行政官としての性格が優先される。そして、軍功と軍忠を上げる事で自身と地位確保や勢力拡大を成してきた武士にとっては、その勢力拡大の道をふさがれてしまう事になる。そして、守護の人事は直義の意向が反映されるようになった。「二頭政治」は大きな矛盾を生み、古来から継続しえない政治体制であり必然的に対立を生じさせた。これらの直義派は幕府的秩序の存続を望む官僚・惣物・守護嫡子・足利氏一門・地方武士層(豪族)であり。師直派はそれを拒む武将・守護庶子・足利氏譜第・畿内近国武士(新興御家人)と二極化していった。この頃、婆娑羅として名を馳せる高師直率いる武士は秩序を軽んじ、狼藉する事件が多発している。興国二年暦応四年(1341)に塩路高貞が謀反の嫌疑で直義派の桃井直常・山名時氏らに討たれ、翌興国三年/康永元年(1342)土岐頼遠が光厳天皇に狼藉を働き斬首される等、直義の裁断に不満を募らせた。

 

(写真:京都仁和寺)

 正平四年/貞和五年(1349)閏六月三日、出仕停止を受けた上杉重能は、その後、一番引付頭人や内談方頭人として就いている。足利直義は、上杉重能、畠山直宗、僧明吉等と共に高師直と対立して師直の執事解任を謀議し、尊氏に師直の悪行の数々を挙げ糾弾を迫り、師直の執事職解任に成功した。しかし、師直は後継の執事に甥の師世を就任させ、幕府政治の高氏一派の排斥には失敗した。

『太平記』には直義方が師直の暗殺未遂騒動まであったことが記されている。逆に師直は河内から軍勢を率いて上洛した師泰と合流し、同八月十三日、直義を襲撃したが、あわゆく難を逃れ尊氏邸に逃げ込んだ。尊氏邸を包囲した師直は直義を保護した尊氏に上杉重能と畠山直宗の身柄引き渡しを要求する。まさに婆娑羅による謀叛である。直義にとって、この二人を失う事は今後の自身の地位、施政に多大な影響が出るため拒んだ。しかし禅僧の夢窓疎石の仲介により重能・直宗を配流、そして直義が出家して幕政から退くと言う事で師直は包囲を解くことに同意した。

 

(写真:京都東寺)

 その後、再度の夢窓疎石の仲介により、直義は鎌倉から京都に来る義詮の補佐をすることで政務に復帰するが、立場上において降格となり、発言力もない状態に等しかった。また、師直も執事に復帰した事で大きな軍事衝突は避けられたかに見えた。九月九日に尊氏は義詮と交代の為に基氏を実子として鎌倉公方に下向させたとされる。それは、十月に高師冬を基氏の執事と定め翌年正月に鎌倉に下向させていることから窺い、尊氏は直義から離れたと考えざるを得ない。しかし、基氏は当時十歳で同行した武士は百騎にも満たぬ軍勢であったとされるが、尊氏の考えを窺う事は困難である。同年九月十日には長門探題であった直義の養子直冬(尊氏の非認知子息)が中国地方で兵を集め上洛しようとしたが、尊氏は師直に討伐軍として派遣し、九州に追われていった。しかし直冬は九州での反幕府勢力の武士の勢力と結びまた大宰府の少弐頼尚と組み、南朝方とも与し拡大させている。

 

(写真:太宰府天満宮)

 十月二十二日に義詮が鎌倉から入京した。十二月八日、直義は出家して恵源と号した。しかし、正平四年/貞和五年(1349)十二月二十日に高師直の謀叛により捕らえられた上杉重能と畠山直宗は友に越善に流され師直配下の越前守護の八木光勝により斬殺されている。これが観応の擾乱(かんおうのじょうらん)の始まりであった。 ―続く