今回は永井路子さんの『炎環』について、ご紹介させて頂きたい。この『炎環』という言葉は永井さんの造語であり、中世初期の鎌倉幕府を舞台に目まぐるしく、炎の如く、めぐる時代と人物に焦点を当てた作品の題名として充てられたと思う。
まず、永井路子は大正十四年(1925)三月三十一日東京本郷で生まれる実父は来島清で彼女の生後数年で死去、母は声楽家の永井智子である。母智子が一人娘であった為、実家を継ぐ名目で、古川で瀬戸物を扱う大叔父の長井八郎次の長女として養子に入る。茨木県古川高等女学校を(現小原木建立第二高等学校)を卒業、東京女子大学国語専攻部に入学し、昭和十九年(1944)に卒業した。終戦後東京大学経済学部の聴講生となり学んでいる。
昭和二十余年小学館に入社、同年歴史学者になる黒板伸夫と結婚。小学館では『女学生の供』、『マドモアゼル』等を編集し、歴史小説の執筆活動を行う。編集者として有能で、松本清張氏等を担当し、川端康成氏とも親交があったと言う。夜遅くまで仕事をし、小柄でスタイリッシュな容貌は男性社員のあこがれの的であったと語られている。昭和四十五年にとられた鎌倉駅東口での彼女の写真はそれを物語っている(永井路子著『私の鎌倉道』に掲載されている)。
昭和三十三年(1958)筆名を永井路子として使い始め、昭和三十六年小学館を退社文筆活動に専念する。昭和三十九年(1962)鎌倉市に転居、この頃に司馬遼太郎、石浜恒夫、寺内大吉等が企画創刊した同人誌の「近代説話」に入った。当時、司馬遼太郎は昭和三十五年(1960)梟の城で直木賞を取り翌年には産経新聞を退社し、執筆活動に専念。昭和三十七年(1962)『竜馬がゆく』『燃えよ剣』を連載しており、多忙の為「近代説話」を辞めようと考えていたが永井路子が直木賞を取るまではと続けたとされる。この『近代説話』九号に『炎環』の「悪禅師」、十号に「黒雪賦」、十一郷「いもうと」、を掲載し、書き下ろしの「覇樹」を加えて『炎環』昭和四十四年十月に光風社より刊行された。そして、その年第五十二回直木賞を受賞している。また大河ドラマの『草燃える』の原作の一つとなった。平成七年(1995)に戦後五十年を期して歴史小説の断筆を宣言する。
小説『炎環』の内容をかいつまんでご紹介させて頂くと「悪禅師」、「黒雪賦」、「いもうと」、「覇樹」の四編からなり、鎌倉時代初期の人物に焦点を当て描いている。一編事の短編としても見る事も出来るが、歴史小説を読み慣れていない方にとっては主人公が若干物足りないかもしれない。しかし四編で長編としてとらえる事が出来る。私がこの本と出合ったのは十年ほど前であり、著者の視点の当て所に非常に驚いた。
「悪禅師」は源義朝の七男で源頼朝の異母兄弟であり、九朗義経の同母(常盤御前)で兄にあたる。幼名は今若丸で平治の乱で父義朝が討たれ醍醐寺に出家させられ、間もなく隆超(もしくは隆起)と名乗り、その後、全成と改名した。頼朝の挙兵を聞き付けて京を抜け出し、石橋山の戦いで敗れた直後の兄頼朝と対面する。頼朝の信任を得た全成は武蔵国長尾寺(現在の川崎市多摩区、妙楽寺)を与えられた(『吾妻鏡』治承四年十一月十九日条)。北条政子の妹阿波の局を娶り駿河国阿野荘を所領とし幕府有力御家人として頼朝、頼家に仕えるが頼朝の時代には『吾妻鏡』にはほとんど記載されていない(阿波局と関連した記載のみ)。保子との間には六人の男子と二人の娘を儲けている。
治承の乱・源平合戦で武功を立てた義経、兄範頼が次々と頼朝に誅殺され、小説『炎環』「悪禅師」では頼朝の一挙一動に心を許すことなく、目立つことなく、逆らうことなく過ごしている。妻の阿波局は頼朝の子千万(後三代将軍源実朝)の乳母になっていた。
頼朝の死後、将軍になった頼家は十八歳であり、若年で頼家は従来の慣習を無視した独裁的判断が御家人たちの反感を招いたとされる。頼家の裁断権が取り上げられ、十三人の合議が始まった後の安達景盛留守中の愛妾を御所に連行、また頼家が蹴鞠に明けくれた挿話が『吾妻鏡』に記載されている。この頃頼家は度々病床に入ることが多くなった。小説では阿野全成は頼朝の時代義経、兄範頼が次々と頼朝に誅殺された事から、身を隠すように僧侶として自身を置いていた。全成の妻の阿波局(本名不明)を保子と記載されている。
保子が千万の乳母であることから千万を可愛がり、秘かに千万の次期将軍をそれとなく全成にほのめかす。全成は「今の様子では、頼家が長い間その地位を保ち続ける事は到底考えられない僧だとしたらその後を継ぐのは頼家の子の一万か、この千万か・・・・」秘かに千万の擁立を考え始め、頼家の乳母夫が比企能員と梶原景時であり、保子が結城朝光に梶原景時が将軍頼家に讒言したと伝えた。これに怯えた朝光は三浦義村に相談し、三浦義村、和田義盛ら御家人六十六人の景時排斥の連判状を頼家に提出する。頼家は景時に連判状を下げ渡すと、景時は弁明もせず、一族と共に相模国一ノ宮に退いた。そして再び鎌倉の頼家を伺うが、許されず京都に向かう途中、駿河で地侍と遭遇し討たれる。残るは比企能員・一族のみ、北条は頼家の子が後を継ぎ将軍になれば、将軍の外戚から外れ、それに代わり比企が権勢を持つことになる。「全成は保子と共に北条市の手足になる事を申し出た。比企打倒である限り、時政にも政子にも異存は無かった。その時期は頼家が病気で倒れた時と決められた。」「時は迫って来ていた。頼家と言う根の枯れる日はもう遠くないそして比企を制圧して千万が将軍の座に就く時こそ自分が晴れてそのそばに座るときであるのだ…。」そして、そのことを知った頼家は武田信光を向かわせ全成を謀反人として捕縛した。
小説で、ここでは全成が比企討伐の夢を見、現実と夢の中で自身を捕えに来たのが赤地錦の鎧直垂に紫裾濃の鎧を着た九朗義経に表し、自身が義経に何もできなかったことを描写し、あてがえている。御所に連行された全成は謀反を否定する。北条時政・政子が自身を救うだろう。「長くとらえられては比企討滅の証拠を掴まれるより、早く釈放された方が都合がよいに決まっている。」しかし頼家は「禅師、俺は今二十二だ。物心ついてこのかた、十数年俺が禅寺を見ていなかったと思うのか…」全成はぎくりとしてその顔を見た。思いがけない陥穽(かんせい)に落ちた感じだった。彼は兄の一挙一動に注目していた余り、この蕩児の甥の瞳を見過ごしていたのかもしれない。目をふせたとき、頼家は急に優しい口調になった。
「禅師、源家の血は冷たい…な、そうは思わぬか。しかし冷たいのは、源家の血だけではなさそうだぞ、禅寺…何か叔父御は思い違いをしておられぬか」
時政、政子、四郎義時等の顔が目の前で泛んでは消えた。―裏切ったな、さては…。そして最後に全成の瞼を保子の白い笑顔がよぎった。
建仁三年(1203)五月ニ十五日、常陸の国に配流。六月ニ十三日頼家の命を受けた八田知家によって誅殺された。享年五十一歳。 ―続く