鎌倉散策 鎌倉に関する書籍七『炎環』永井路子、二 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 「黒雪賦」は「讒言の景時」と言われた梶原景時の話である。讒言(ざんげん)とは、他人をおとしめるため、有りもしない事を目上の人に告げ、その人を悪く言う事である。梶原景時は坂東八平氏の流れで鎌倉氏の一族である。石橋山の戦いで敗れた源頼朝を救ったとされ、土肥実平を通じ養和元年(1181)正月十一日、この日初めて頼朝の命により参上した。『吾妻鏡』養和元年正月十一日条、頼朝は「文筆に携わる物ではないが、弁舌に巧みであり、頼朝は非常に気に召したと言う」。小説では頼朝との対面で武士の様相ではなく、京都の公家風の様相に対し「その振る舞いが優雅であればある程、彼は頼朝への失望感を隠し切れなかった。が、失望すると否とにかかわらず、このとき既に頼朝にかけてしまった自分を景時は感じていた。」その後、頼朝の忠臣とし仕え、鎌倉幕府創建の立役者の一人、上総広常の謀叛があるとし、頼朝の命により双六を打ちに誘い、そこで誅殺する。しかし広常は無実であった。特に義経との確執が「梶原景時の讒言」が有名であり、義経の討伐のきっかけを作ったとも言える。しかし源平合戦において他の大将・軍監の報告書とは違い詳細な戦況と戦果を書き添えた事に景時の事務能力の高さが窺え、頼朝は非常に褒めたたえたと言われる。

 

 小説では九朗義経が頼朝追討の院宣を受けた際に景時が頼朝に『今、九朗殿をそのままにしておけば、御所の御為には平家以上の手強き相手になりましょう」「御所は先ず武家の棟梁であられますぞ。棟梁の命に背くものは罰せられねばなりませぬ。肉親への御情は尤もながら、そのことはお忘れになりませぬように」と頼朝が肉親を討つことに躊躇した際、景時は繰り返し、頼朝のためらいが偽りであろうとなかろうと頼朝に残された道はそれしかなかったと綴っている。また「以後、景時は、九朗が挙兵に失敗し、吉野から奥州に奔るまで執拗にこの主張を変えなかった。― 平三(景時)の執念深さよ…。)

 九朗義経が奥州で藤原泰衡に討たれ、和田義盛と梶原景時により腰越で首検が行われた。小説によるその時の描写は「― 苦労をここまで追い詰めた平三がどんな風な首検をするか」「数十の瞳の凝視の中彼は櫃に近づいた。彼はしばらくの間、そのまま紫の肉塊を見つめていた。が、石を見つめるような彼の評定からは誰も何の感情も読み取れない。やがて彼はゆっくりと視線を新田高平へと移した(藤原泰衡の使)。数瞬――彼は無言である。」「義盛が我にかえったようにうなずくと、郎従が再び走り出し、櫃の蓋を閉じた」首検めがあまりにも簡単に済んだ事、その景時が一言も発しなかったことは侍たちにとっては意外なようであった」。頼朝に首検の報告を和田義盛と梶原景時が行った義盛は「九朗殿の首(しるし)は黒漆の櫃に納められてありまして・・・が、何といっても夏の事でございます・・・酒漬けにはしてありましたものの・・・」「もうよい」頼朝はかすかに肯いたようだった。義盛が口をつぐんだ時、傍らの景時がふいに、にじり出た。『申し上げます。和田義盛の申す通り、御首はかなり変わり果てておりました。あるいは九朗殿の御首でないとも申せるかもしれませぬ」頼朝の顔を見ないように一気に喋った。「が、和田も私も、それを九朗殿の御首として受け取って参りました。と、申しますのは、新田高平の面態に少しも偽りも見られなかったからでございます。な、そうであったな、和田太郎」そして、「これで九朗殿のお身柄については落着いたしたわけでございます。が、まだすべては終わったとは申せませぬ」と奥州追討を促した。永井路子の梶原景時を語った一説である。『吾妻鏡』文治五年六月十三日条にて「…その首は黒漆の櫃に納めて美酒に浸され、高平の従者二人が担いできた。昔、蘇公は討ち取った敵を自ら担いだが、今、高平は他人に首を担がせていた。その様子を見る者はみな涙を拭い両袖を濡らしたと言う。

 

(写真:腰越、満福寺)

 治承四年十一月十七日、頼朝は和田太郎義盛が石橋山の敗戦から安房に向かわれる際、義盛が望んでいた侍所別当(軍・警察を担った組織の長官)の職を上位の者を差し置き、補任を命じた。しかし、梶原の景時が一日で良いので侍所別当に変わってほしいと義盛に懇願し、そのまま別当として業務を遂行している。『吾妻鏡』ではそれらの理由は記載がないが、頼朝がそれを許したことは事務、実務の能力に長けていたためだと推測する。そして侍所別当として厳しい統制に乗り出している。その後有力御家人として恩賞を積み重ねていった。そして、頼朝の嫡男の頼家の乳母夫になっており、それが景時の明暗を左右する事になるとは本人も予測できなかっただろう。

 

 頼朝に従った東国の武士は、所領の安堵・訴状の裁断、朝廷への折衝、そして東国の安定を考え「御恩と奉仕」を基に主従関係が結ばれていたが、本来、頼朝挙兵時において平家側だった景時は、他の挙兵時からなる御家人に対し出遅れたわけである。そのため自身の出世と家の拡大の為、頼朝への忠臣に励み、頼朝に賭けたとも考えられる。そして景時の存在自体が北条の権勢を高めたとも考える。しかし、景時の讒言は多くの武士達が受け畠山重忠もそうであり、頼朝死後、結城朝光は御所の侍所において「忠臣は二君に仕えず」と頼朝を偲ぶ発言をしたことが大きな波紋を呼び、政子の妹の阿波局が結城朝光に梶原景時が将軍頼家に讒言したと伝えた。これに怯えた朝光は三浦義村に相談し、三浦義村、和田義盛ら御家人六十六人の景時排斥の連判状を頼家に提出した。後家人達は景時に対し反感と妬みを募らせていたのだろう。

 

(写真:鎌倉、仏行寺)

 頼家は景時に連判状を下げ渡すと、景時は弁明もせず、一族と共に相模国一ノ宮に退いた。その六十六名の連判状に比企能員の名はあるが、北条時政と義時の名は存在していない。それは頼朝の死後、頼家が将軍を継ぎ北条との関係が悪化しており、頼家の裁断権を奪い十三人の合議制においても北条時政主導で行われている。比企能員と梶原景時は頼家の乳母夫であり、その存在は北条にとって不必要であり、驚異の一つとであった。連判状に北条時政と義時名が有れば将軍頼家の反発も予想され、他の御家人による連判状で梶原景時が失落するとあれば北条にとって好都合であった。

 

(写真:佛行寺、梶原景時の嫡子景季の片腕が埋められていると言う源太塚)

 景時は再び鎌倉に戻り、頼家に許しを請うが、許されず、相模国一ノ宮に戻り一族を連れ公家を頼り上洛を試みるが、駿河で地侍に会い、討ち取られた。後に二代将軍頼家が伊豆に配流され北条義時の手勢に討たれることになる。『愚管抄』第六巻、鎌倉の抗争―比企・梶原の誅殺において梶原景時と一族を滅亡へと追い込んだのは頼家の失策であったと記載されている。「黒雪賦」では駿河で地侍との戦いで「雪原のかなたにある鎌倉幕府―自分が命を懸けて造ったにもかかわらず自分の手から脱け出してしまったそれ―いまも遥かにそそり立つ鎌倉幕府の幻影を、その時彼は見つめていたのかもしれなかった」と閉じている。 ―続く

 

(写真:梶原、御霊神社)