鎌倉散策 鎌倉幕府の衰退と滅亡、二十二「終焉と新たなる始まり」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

二十二、終焉と新たなる始まり

 源頼朝は奥州合戦で藤原泰衡の郎従由利八郎維衡を生け捕り、頼朝が維衡に言った言葉が『吾妻鏡』に記されている。「汝の主人である泰衡は、威勢を両国に振るっていたので、刑を加える事は難しいと思っていたところ、立派な郎従がいなかった為か河田次郎一人の為に誅されてしまった。いったい両国を支配し、十七万騎の棟梁でありながら、百日も支えられず、二十日の内に一族がみな滅亡してしまった。言うに足らないことよ」。新田義貞が挙兵して十日に入間川を渡り、小手指河原で合戦となり十八日、鎌倉攻めを始め激戦であったが僅か五日で落ちた。

 

 鎌倉幕府は元寇後の困窮する御家人対策の失敗により、鎌倉幕府創建時の「御恩と奉公」の主従関係が崩壊していく。十三代執権北条高時の時代では北条得宗家の御内人に権力が集中し、賄賂、専横政治が後を絶たず、嘉元の乱の北条得宗家の内紛の処理、蝦夷の反乱で紛争解決における得宗家の失態、正中の変における不明瞭な解決は幕府の勢力を保つ御家人の失意を加速させた。これらの事が悪党と有徳人の増加に拍車をかけ幕府の統制は乱れ、安易な対策だけに御家人、悪党と有徳人に倒幕意識を募らせた。そこに、承久の乱以降、幕府が朝廷の即位問題まで介入しだし、嵯峨天皇の崩御後に皇統が持明院統、大覚寺統に別れ幕府は両統送立「一代の主」を行い各統交互に天皇を即位させる。尊治親王(後醍醐天皇)は、そうした中、即位できる親王ではなかったが兄の大覚寺統二条天皇の急逝後により一変した。持明院統の花園天皇が即位し、後二条天皇の皇子邦良親王は年も若く病弱であったとされ、大覚寺統は代表者として尊治親王を花園天皇の皇太子として擁立させる。尊治親王が幕府に働きかけ花園天皇から譲位され、醍醐天皇として即位したが、「一代の主」として称され周囲も認識していた事である。これは邦良親王が成長するまでの中継ぎであったが、幕府との折衝で院政を停止させ後醍醐天皇が親政を開始した。後醍醐天皇は記録書を再興し、政務の中心として能力のある近臣者を積極的に登用し、意欲的な政務を行った。しかし、無礼講と称し倒幕計画をおこなっていたとされる正中の変が密告により発覚し、土岐頼有・多治見国長が自害、日野資朝・俊基、祐雅法師が鎌倉へ護送され、無罪とされながら日野資朝が佐渡に配流され祐雅法師が追放になっている。この正中の変については後醍醐天皇の冤罪説が有力である。詳細は「鎌倉幕府の衰退と滅亡」十三、正中の変で記載。

  

 後醍醐天皇がここで如何に倒幕を進められたかについて補足させてもらう。元弘の変は嘉暦元年(1326)三月皇太子邦良親王が二十七歳で死去した。後醍醐天皇は皇子尊良親王を立太子として建てるが幕府は持明院統の量仁親王(かずひと)を立太子として決定した。後醍醐天皇は自身の立場の危機感を感じ、「一代の主」という立場から脱却するには「両統成立」を打ち出し、皇位継承に関与する幕府の存在が大きく立ちはだかる事から倒幕計画を立てたとされる。倒幕計画は側近の吉田貞房の密告により露顕し、幽閉されるが鎌倉での内官令長崎高資の誅殺の企てが露見し、その混乱の中、三種の神器を持ち出し大塔宮と共に木津川南岸の笠置山に篭もる。これに呼応して楠木正成が蜂起したが笠置山で一月程戦うが捕縛され隠岐に尊良親王は土佐に配流され、日野俊基が鎌倉葛原岡で斬首にされ、僧侶達が流罪になっている。大塔宮は吉野に逃げた。

 

 結果的にあまりにも幼稚な倒幕計画であり、偶発的に起こった可能性も考えられる。しかし、その後大塔の宮、楠木正成の粘り強い倒幕運動により各地で悪党・有徳人・御家人達が蜂起し、西では幕府の大将の一人足利尊氏は後醍醐天皇の綸旨を受け官軍に付き、東では無位無官の御家人新田義貞の挙兵が端を斬った。足利・新田の源氏と北条得宗家の平氏との戦いの様相を示すが、すぐさま北条得宗家と御家人たちの戦いに変化していった。そして北条が作り上げた血塗られた鎌倉において、北条得宗家一族が「血は流れ、暗く濁った大河の如し。屍は満ちて折り重なり野原の如し」と記され滅亡した。

 

 七月十七日に「新政」を開始し、建武元年に成立した建武政権の新政策である事から、元号により呼称される。また、「建武の中興」とも呼ばれる。ここで足利高氏は後醍醐天皇から諱(いみな)を与えられ「尊氏」と改められ鎮守府将軍に任命された。広義には南北朝期は含まれるが室町期を含んでいない。新田義貞九品寺を建立。後醍醐天皇の命により北条家の霊を弔う為に北条宗家邸跡に宝戒寺を建立する。

建武の新政は後醍醐天皇の嫡流として認めさせるための善政を行う事である。従来の政治形式を天皇の専制政治をもたらす事であったが、政務の中枢を担う記録所、恩賞方が設置された。また特定の貴族・家に世襲されていた官職を廃止、地方行政を司る国司においても慣例を打破し特定の家が代々同じ国から利益を得る知行制を見直し武士の登用も行っている。また同時に、武士を中心に守護を任じ治安維持にあたらせたが国司との紛争も生じた。特に建武の新政で武士達に不満をもたらした大きな要因は、旧領回復令が発布され、続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判祭神令等が発布された事である。この発布は従来の土地所有は一旦無効とされ、新たな土地所有権や訴訟の新政において天皇の裁断である論旨が必要とされるものであった。この発布により土地訴訟権の認可を求める者が京都に殺到した。対応できなくなった後醍醐天皇は翌七月に諸国平均安堵令を出して朝敵を北条一族のみと定めて、知行安堵を諸国の国司に任せた。しかし、貴族や鎌倉幕府を倒した武士の恩賞問題、人事問題が交差し、武士たちの不満が続出し、中先代の乱後、足利尊氏の離反により建武政権は僅か二年で崩壊し、南北朝の時代に移行した。東国・西国の武士たちは武士を束ねる棟梁を待ち望んでいた。 ―完