鎌倉散策 『鎌倉幕府の衰退と滅亡』、十九「畿内の合戦」 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

十九、畿内の合戦

 大塔宮(護良親王)が出される令旨と言う言葉をよく記載するが。この令旨とは中国の唐の時代に皇太子の命令を伝える文書で、日本においても皇太子の命令を伝える文書を令旨(りょうじ)とされ、太皇太后・皇太后・皇后の出す文書もこれに準じている。そして綸旨(りんじ)は天皇の意を受け蔵人所が天皇の意見を受け発給する文書であり、本来は「綸言の旨」の略称である。古代、中世、近世において天皇は公的に自ら筆を執って文書を発給する事が無かった。平安時代中期以降は天皇の口宣を元に蔵人が作成発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになっている。また、宣旨(せんじ)は天皇の命令を太政官に通して伝達する文書である。新田義貞が執事の船田義明の謀で大塔宮の令旨を手に入れた以降に大塔の宮から護良親王の令旨に変わっている。

 

(写真:『太平記絵巻』第三巻足利高氏大江山越えと高氏像)

 幕府は戦況の膠着状態と長期戦において不利になることを認識し、早期の終息を行うべく再度足利高氏に出陣命令を出した。高氏は今回の出陣命令の際、病床に入っていたと言う。北条高時から矢のような最速が続き『太平記』第九巻、足利殿上洛の事一に「時移り事去り身分の高下が逆になり。高時は北条時政の末孫なり。人臣(臣籍降下)に下って年久しいが、我は源家累代の貴族なり。王子(清和帝から十六代目)を出て遠からず。この理(ことわり)を知りながら、一度(ひとたびは)は君臣の儀(上下)をも存ずべききに、これまでの沙汰に及ぶ事、ひとへに自身の未熟ゆえ。所詮、重ねてなほ上洛の催促を加えるほどならば、一家を尽くして上洛し、先帝(後醍醐天皇)の見方に参じて六波羅を攻め落とし、家の安否(運命)を定むべきものをと心中に思い立たれけるをば、知る人さらになかりけり。」と心中秘かに叛逆の企てを思い定めていたとされる。そして、妻登子(とうこ)、と子の千寿王を連れ上洛を考えた。しかし、長崎円喜(高綱)は一族を挙ての上洛を不審に思い妻子を鎌倉に残し、幕府に背かないよう起請文を書かせた。高時は大変喜び北条氏が所持していた源氏累代の白旗を錦の袋に入れ高氏に手渡した。この間、六波羅では御家人の結城九朗左衛門親光が山崎に陣を張る赤松円心の側に付き、幕府の陣営から徐々に帰国、西国側に付く者が現れていた。

 

(写真:『太平記絵巻』北条高時尊氏に累代の白旗を錦の袋に入れて渡す、高氏出陣)

 三月二十七日、軍の大将として名越高家と足利高氏は鎌倉を出陣し、四月十六日に上洛している。高氏は上洛した翌日、後醍醐天皇の味方に付くことを伯耆船上山へ使いを出し、綸旨を受けたと『太平記』に記されている。四月ニ十七日、八幡、山崎の合戦がこの日に定められており、大手の大将名越高家の七千六百騎が鳥羽街道を下る。搦手の大将として足利高氏の五千騎が西岡(現京都府向日市一帯:長岡京北)に向かった。八幡・山崎に陣を張っていた官軍は千種頭中将忠顕の五百騎を桂川、宇治川、木津川の合流する大渡の橋を打ち渡り、赤井河原(現、京都市伏見区淀から羽束師(はつかし)の桂川西岸)に進む。結城親光の三百機は狐川(現、山崎と八幡の渡し)に向かい、赤松円心の三千騎は淀の古川(現、伏見区羽束師古川町)、久我縄手(くがなわて:現、鳥羽から山崎へ至る桂川西岸の道)の南北三か所に陣を張った。円心は高氏の内通を知らされていたが万が一のことを考え坊門少将雅忠、西岡の北の寺戸、西岡の野武士五百人ほどを岩倉(現、西京区大原野石造り町)へ向かわせていた。

 軍勢的に見ると幕府軍が圧倒的優位であるが、名越高家の軍だけではそれほど優位を示さない。地形的に見て、この山崎・八幡は山に挟まれ西から桂川、北から宇治川、西から木津川が合流する。葦原の藪が続き泥濘(ぬかるみ)が多い土地である、そして北の京都方面も巨椋池が広く泥濘が続く。遊撃戦になれば葦原で身を隠すことも容易で、地の利に長けた者は容易に敵を包囲する事が出来、包囲された者たちは泥濘から出る事が容易ではない。ここでの官軍は野伏などが多く、楠木正成の戦いを見ても東国の武士達とは戦い方が違っていた。しかし、高氏の陣を張った西岡は戦況に応じて、どちら側にも対応できる場所であった。

 

(写真:京都宇治川と大鎧)

 高家は血気にはやる若武者で、その日の馬、物具、笠符(かさじるし)に至るまで輝かしいいでたちであったと言う。同ニ十七日辰の刻(午前八時)、久我縄手に着いた高家は泥土の中を我先に進み、官軍を蹴散らし、三方の敵を追い回し、家宝の三尺六寸の重宝鬼丸の太刀が血で赤く染まった。官軍の放つ矢は高家の鎧を突き通すことが出来きず、高家は官軍を追い続け、官軍はその勢いに退却する。しかし、赤松一族の作用左衛門三郎範頼が畦道を伝い、藪をくぐり、身を隠し高家の鎧を打ち抜ける強弓を討った。その矢は高家の眉間を貫き、脳砕き骨を分け、胛(かいがらぼね:肩甲骨)のはずれへ矢さき白く射出だしたる間に馬より真っ逆さまに落ちたと『太平記』九巻、三、名越高家討死の事に記載されている。また軍忠状においては、地元の武士、開田林実広が名越一族の一人を菱川と言う所で討ち取ったと記載されている。

 

 この時、足利高氏は西岡で陣を張ながら酒盛りをし、名越高家が討たれると知ると西の大江山を越え丹波国篠村に陣を張った。篠村住人の久下弥三郎時重が百四・五十騎、笠符(かさじるし)に一番の文字を書き馳せ参った。この紋は武蔵の国の住人、久下四郎重光(小山朝政の弟で武蔵国大里郡久下郷に住んだ武士)で頼朝が挙兵した際一番に駆けつけたと言う紋であると申した(『源平衰退期』『吾妻鏡』では一番には背参じたとは語られていない)。丹波の高山寺(兵庫県丹波市氷上町の弘浪山上にあった)に立てこもる武士以外の近国の者が馳せ参じ、二万余騎の軍勢になった。

 

(写真:京都東寺)

 高氏は五月七日、寅刻(午前四時)所領の丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で篠村八幡にて集結し、戦勝の願文を奉じ鎌倉幕府に反旗を翻す。元弘三年五月七日、大塔宮の論旨を受けた足利高氏が北から、赤松円心が西側から、千種忠顕が南から六波羅は総攻撃される。官軍は京に着くと、かなりの兵が参集していた。両六波羅の北条仲時、北条時益、は後伏見・花園・光厳天皇を奉じ関東に下ることを決意し、両六波羅は陥落した。鎌倉を目指し東へ敗走する途中、北条時益はその途中の武士に討たれ、光厳天皇も肘に矢を射られ血に染まったと言う。北条仲時は追手の五辻兵部卿宮(後醍醐天皇第五皇子、五宮:守良親王とみられる)を大将とする佐々木尊氏の野武士、伊吹山・鈴鹿の山立・悪党ら二・三千の兵に道をふさがれ、近江国馬場峠において一向堂(蓮華寺)で合戦となり仲時ら四百三十人らの北条軍は討ち取られ、自害し果て殲滅された。その中に伯耆船上山(後醍醐天皇)で敗れた、隠岐国守護前司佐々木清高の名があり、海路越前敦賀から六波羅軍に合流したとされている。自害したのは得宗被官で御家人が自害に加わったものは少なく、小早川定平らは帰国している。

―続く