鎌倉散策 鎌倉幕府の衰退と滅亡、二十「東国の合戦」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

二十、東国の合戦

 無位無官の新田義貞が実際に綸旨を受けたかどうか疑問が投げられており、『太平記』において後醍醐天皇が義貞宛に綸旨を発給した記述はない。しかし、綸旨の文章で書かれた令旨であったと、また大塔宮の令旨とされている。義貞が領地の新田庄に帰ると幕府は金沢出雲介親連と御内人黒沼彦四郎により経済的に潤う世良田宿への過重な兵糧米賦課と「天役」と名目して軍資金六万貫を、まして五日間の期限を着けて迫って来た。幕府は世良田宿に商人が多く経済的に潤っている事に眼をつけた。しかし、新田と世良田宿の商人達とは共存関係を保ち発展させて来た。新田氏は鎌倉幕府創立期から冷遇され続け、今回あまりにも傲慢な使者の金沢出雲介親連を幽閉、黒沼彦四郎を殺害し、幕府から追討を賭けられる。これが、義貞が挙兵する決定的な要因になったと考えられる。

 

(写真:新田義貞像、後醍醐天皇)

 義貞は一族の評定を開き、沼田荘の要害を建て、利根川を前にし摘を待つ。越後の一族と合流し越後上田山庄で敵を迎え撃つと言う消極的な意見が出された。弟の脇屋義介の鎌倉を攻めるべし、叶わなければ鎌倉で討ち死にすべしと言う進言を入れ、謀叛が露見する前に倒幕に踏切、挙兵する。五月八日、義貞は新田庄一井郷の生品神社(現太田市市野井)で一族を集結させ、生品神社の御前にて旗揚げを行った。そして後醍醐天皇の綸旨を三度拝し笠懸野に僅か百五十騎で進出した。

 

(写真:鎌倉足利尊氏邸の長寿寺)

 その夜に利根川で越後の同族、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の先遣隊二千騎と合流する。東山道を西にとり上野国守護所に近い八幡荘を制圧し、飽間斎藤・高野・浄法寺から援軍と越後の後陣と信濃源氏の一派の軍勢五千機と合流して七千騎に増強した。義貞は『太平記』十巻で挙兵の日がどうしてわかったのか問いかけ、大井田遠江守は「去る五日、御使いと手天狗山伏一人、越後の国を一日の間に、触れ廻りて通候し間、夜を日に継いでかけ参じて候」と答えている。山伏等を活用した情報網が張り巡らされていた可能性が高い。そして翌日の五月九日、武蔵に向け出撃した。利根川を渡り武蔵国に入る際、鎌倉を脱出した足利高氏の嫡男千寿王(後の足利義詮:よしあきら)が新田義貞と合流後する。千寿王は数え齢四歳で、その手勢は二百で、足利尊氏の嫡男が合流したことにより、義貞の軍勢に加わる各地の武士が増えた。軍勢は『太平記』、ではニ十万七千騎、『松梅論』では二十万余騎と記載されている。これは、北条得宗家を中心とした相模の南関東と上野・下野・武蔵の北関東の虐げられた御家人達の戦に変容していった。

 

(写真:大鎧と鶴岡八幡宮例大祭流鏑馬神事)

 幕府側は義貞の挙兵に伴い軍評定を開き、十日に金沢貞将(さだゆき)が下総国下河辺庄に赴いて背後から新田軍をつく戦法を取ることが決められた。兵力は幕府軍が勝っていたが、新田義貞は十日、入間川に着き、幕府軍の桜田貞国を大将、副将長崎高重・加持二郎左衛門らの軍勢が武蔵・上野の軍勢を率い入間川で両軍対峙した。義貞は十日、辰刻(午前八時)入間川を渡り、小手指河原で合戦となり戦闘は三十回を超える激戦となった。幕府への不満を募らせていた武蔵の御家人河越高重らの援護を得て次第に有利となり日没とともに両軍が引き、義貞軍は入間川で、幕府軍は久米川宿付近で陣を張った。新田勢三百騎、幕府勢五百騎が討ち死にしたとされる。翌朝十二日朝、義貞軍は久米川に進み、長崎・加治の軍勢は鶴翼の陣で義貞の軍勢をはさみ込む戦法で押し寄せた。義貞は長崎・加治の軍勢が拡散したのに対し手薄になった敵本陣を一気につきを破り、長崎・加治の軍勢を撃破した。幕府軍を武蔵の国府近くの分倍河原(ぶばいがわら)まで後退させる。十五日には新手の北条泰家の軍が加わり幕府軍の士気が上がった。

 

 倍河原で交戦し、一進一退の激戦の中、義貞軍が崩壊しかけるが、自らの手勢で幕府軍の横腹を突き血路を開き堀兼まで後退した。この時に幕府軍が追撃していたならば義貞の軍勢は壊滅したと言われる。その夜、堀兼で相模の住人三浦一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷・本間の軍勢六千を率い味方に付いた。大多和義勝は治承・平治の乱で活躍した三浦義連の末裔の家系で、宝治合戦の際、三浦に着かず姻戚関係を考え北条時頼に付いた三浦一族の庶流である。しかし、義勝は実は足利一族で高氏からの養子で三浦に入っており、この義勝の行動は宗家足利尊氏の意図があったのではないかとされる。そして、翌十六日の分倍河原の合戦で勝利した。この合戦に勝利したことにより足利尊氏の嫡男千寿王の存在価値が高くなり、後の戦勝の度に足利本陣に伺う御家人が増え、義貞に伺う御家人は少なかったとされ、鎌倉を攻撃する討幕軍に大将が二人になったことを暗示させた。また、鎌倉攻めに参加した武士に軍忠状を発し後の武家の棟梁として認知される端緒を作り、新田義貞と足利高氏の関係悪化の元となっている。

 

(写真:夕刻の鶴岡八幡宮舞殿)、夜の鶴岡八幡宮舞殿)

 幕府側は武蔵府中を抑えられた事は武蔵国司を独占してきた北条にとっては最大の拠点を失い、残るは鎌倉の防御のみとなった。この合戦 で義貞に上野から従ってきた上野国碓氷郡の飽間(あきま)斎藤守貞二十六歳と十同家家行ニ十三歳が討ち死にし、また十八日の村岡の戦で討ち死にした同家宗長の三人が、その供養する板碑が八国山に建てられたとされ、現在東村山市の徳蔵寺に保存されている。また府中の三千人塚や阿保入道の墓など多くの戦に関する伝説・古跡等が多く残されており、その戦況の物凄さを語っている。また、この日、幕府側に属し楠木正成と赤坂城の攻撃に参加していた熊谷直春が新田の軍勢についている。既に畿内・東国の合戦は北条得宗家と虐げられた御家人の戦になっていた。 ―続く

 

(写真:鶴岡八幡宮御鎮座記念祭)