鎌倉散策 鎌倉幕府の衰退と滅亡、七「平禅門の乱」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 

(写真:建長寺三解脱門)

七、平禅門の乱

 永仁元年(1293)四月十三日、寅刻に鎌倉は大地震に襲われ建長寺が炎上する。他に大慈寺丈六堂、寿福寺が罹災し、使者二万三千ニ十四人に及んだ。四月ニ十二日、この災害の混乱の隙を衝き九代執権北条貞時の命により経師ヶ谷の平頼綱邸を襲撃し平頼綱は自害、次男資宗と一族九十三名が討たれる。これを平禅門の乱と言う。北条貞時は十四歳で執権になり既に二十一歳になっていた。あまりにも権力を持った平頼綱により自身を頂点とした得宗体制を維持されていたが、あまりにも専横的な強権政治に不安を抱き襲撃を命じたと考えられる。霜月騒動や二月騒動の様に長い期間の摘発などは行われず、短期間で終息している。そこには有力御家人の所領の多さと権勢のみを手に入れた御内人との差であり、霜月騒動で没落を余儀なくされた金沢顕時、宇都宮景綱や安達氏の庶流も幕府中枢に復帰する事が出来た。

 

(写真:鶴岡八幡宮本殿武者像)

 『保暦日記』には、平頼綱と嫡子の宗綱が不和であり、頼綱が次男資宗を将軍に企てる陰謀があり、頼綱の嫡子宗綱が貞時に訴え出たとされている。宗綱は、一旦は佐渡に配流されるが後に召喚され内官僚に就任するが、同族の長崎光綱(平頼綱の弟)が讒訴により再び上総国へ再配流され、その後長崎氏は貞時に重用され内官領に就任し実権をほぼ手中に収めた。北条貞時は再び北条得宗家主導の専制政治の強化を推し進めていく。

 

(写真:蒙古襲来図)

 同年十月、引付衆を廃止し金沢顕時・北条師時・北条宗宣・長井宗秀・宇都宮景綱・北条時村・北条公時ら七名を執奏に任命し旧泰盛派の登用により基盤を強化し訴訟制度の改革を行った。そして、永仁二年(1294)に元寇及び、その後の異国警護で鎌倉幕府を悩ませ続けたクビライが死去している。日本への使者も西安元年(1299)が最後となるが蒙古襲来の恐怖は去らず、異国警護御体制・番役統の強化を継続させなければならなかった。正応五年、永仁五年、正安三年等九州近海に現れたなどの噂が度々流れ、そのたびに降伏祈祷命令が発せられ「神風」による蒙古が退散した事とされている(『吉続記』正安三年十二月十日条、『北条九代記』)。

 

(写真:太宰府天満宮)

 永仁三年(1295)北条時貞が肥前国守護として御家人の戦功申請の受理の為に下向し、正応六年北条兼時、名越時家が下向し北条氏の九州統治が強まった。しかし、二年後兼時が病の為に鎌倉に戻り、四月に時家も関東に戻り九州統治は曖昧なものになっている。

永仁四年(1296)、三月に元寇後にも九州において異国船の出現報告があり、幕府鎮西探題を設置し、金沢実政が鎮西に下向し、一人体制で行われ、鎮西談議所が廃止され、統治にあたらせた。正安元年(1299)に評定衆・引付衆が設置され最終裁断権を持つ鎮西探題となり、最終裁断権を持ったことで、幕府の出先権力機関としての機能を果たすことが出来た。また元寇においての軍事費等の膨大な出費に苦慮する中小御家人を救済する為に永仁の徳政令を発布するが、根本的な御家人の苦境に及ぶ原因を解決するものではなく。逆に借金をし辛くする逆効果を生むことになった。 ―続く

 

(写真:鎌倉市由比若宮)