十二月六日の日曜日、十一月中旬過ぎに名越切通・まんだら堂やぐら群が公開されているので天気の良い日に訪れる予定を立てていた。ここは逗子市の教育委員会が管轄されていて今年夏場に訪れたが門が閉ざされていた。調べると春の四月、五月と六月初旬まで、秋は十月、十一月、十二月中旬までと解放期間が限られている。この様な遺跡は風化に伴い損傷を免れ無く、適宜修復されている。人が常時入る公園化にすると、その損傷はあまりにも見事に表れる。こういった時期を定める事により、ボランティアの方々が、その管理と監視が行われ損傷が少なくなる。
まず名越切通しであるが、本来鎌倉幕府設立前は六浦道と小坪道が三浦から鎌倉に入る道とされていた。源頼朝が挙兵し石橋山の合戦で敗れ、風雨にさらされた三浦勢の到着が遅れた。三浦義澄は丸子川東岸で眠れぬ夜を送り、翌日、三浦義澄が石橋山から逃れた三浦党の大沼三郎に「佐殿(頼朝)も遁れる方なく、手を下して戦い給ういしかども、ついに討たれた給いぬ」と返答を聞き、意気消沈し、由比ヶ浜に戻る。しかし、頼朝と義澄は、このような際においての対応を講じており、頼朝は安房に逃れる。この際、和田義盛の弟小次郎は六浦道を使い杉本城に戻るが、本体は小坪道を通った。小坪道は海岸沿いの為、天候、潮位において危険な道とされ、後に鎌倉と三浦を結ぶ道として名越切通が整備され鎌倉七口の一つといわれる。
現在、名越切通は第一、第二、第三の狭い掘割があり、鎌倉幕府敵の侵入を防ぐ要害として開墾されたと云伝えられ、切通がその面影を残す。そして名越道、名越切通には諸説あるが、『吾妻鏡』天福元年(1233)八月十八日条に名越坂が書見する。北条泰時の時代の寛喜二年(1230)十一月に山内路、六浦路が経済的流通路と軍事的交通路としての開墾が幕府により定められている。しかし名越路は三浦氏を三浦から隔離するために秘密裏に造られた切通とも言われ、泰時が率先して短期間のうちに造られたとされる。後の宝治合戦においては、金沢北条が六浦道を支配し、名越切通は要害化され、三浦の援軍が鎌倉に出陣する事を困難にしたとされている。しかし第一切通(崖の高さ十メートル、最も狭い部分の幅一メートルの所で発掘調査を行ったところ、現在の路面より下に複数の道路面が重なって発見され、最も古い(現地表から六十センチ下)江戸時代後半に使われたものであることが判明した。幅も現在より広く側溝を備えたしっかりとした道路であった。一方、第一切通の南(亀ヶ岡団地側)では、現在の東側の約五メートル高い平場で小規模ながら十五世紀頃の道路と思われる掘削道が発見されている。切通の道筋や構造も時代とともに変遷した事が窺われる。
やぐらは鎌倉地域の独特な墓である。鎌倉幕府初期の墓は法華堂に納められており、有力者は競い法華堂を立てたと考えられる。源頼朝の墓の石塔が現在露店に置かれているが、本来、その場所に法華堂があった。十三世紀の三代執権北条泰時の時代に天災が相次ぎ不慮の死者も多かった。鎌倉の地は平地が少なく、人口増加に伴い、居住地が失われる事を避けるために幕府は平地に法華堂を立てる事を禁止したらしい。「仁治禁令契機」において仁治三年(1242)に大友氏の所領(豊後、現在の大分県)で、「府中に墓所を作らない」と言う法令が出されている。これが幕府法としてあったとされ、平地に墓所を作ることが出来なくなり崖裾に墓所をかまえたとする。衛生管理上も火葬が基本であり、山々の崖においては鎌倉特有の凝灰岩でできているために横穴が彫りやすく墳墓堂を作ったとされる。鎌倉地域を離れると、やぐらは、ほとんど見られない(一部、石川、富山、千葉、大分、宮崎、鹿児島に存在するが御家人の移住により継承されたものと考える)。
やぐらの構造はほとんどが二メートル四方の横穴で、羨(せん:玄げん)門の出入り口とされ内部に観音開き状の扉が設けられた跡が残るやぐらも多く残されている。内部は漆喰で白く綺麗に塗りこめられ、石塔が納められ、中央に納骨穴が掘られたやぐら、壁面に納骨壺を入れる小穴が掘られたやぐら、また龕(げん)と言われる側壁に増設穴を設け、骨壺を納めたやぐらもある。
まんだら堂やぐら群は平場や切岸、やぐらや(墓)、火葬場も多く分布し鎌倉期中後期から室町期にかけての遺構である。やぐらは鎌倉地方における呼称で、鎌倉期からそのように呼ばれていたかは不明であり『新編鎌倉史』(貞享二年1658)には「窟」と記載されている。崖に横穴を彫り主に内部に石塔を立てて納骨・供養され、二メートル四方程度の小規模やぐらが百五十穴以上存在し、これだけまとまった良い状態で見る事が出来る遺跡は鎌倉市内でも少なく大変貴重な遺構である。造営当初は僧侶や武士が中心のようであったが後の鎌倉末期から室町期にかけては財を蓄えた商工業者などの納骨もあったかもしれない。また、この地をまんだら堂と近世の初めには呼ばれているが、すでに畑地となっており、これまでの調査でも平場の一部で十四世紀頃の建物の痕跡が発見されているが「まんだら堂」の明確な資料がなく具体的な事は不明である。
お猿畠の大切岸(おおきりぎし)は長さ八百メートル以上にわたり高さ三から十メートルにもなる切り立った崖が尾根沿いに沿って開墾されたとする。切岸は山城などで敵の侵入を防ぐ崖のことで、三代執権北条泰時が三浦一族の攻撃に備えるために切通と一体として開墾された遺構と考えられてきた。しかし発掘調査を行ったところ現状の断崖は四角い板状の石材を切り出す作業を行った結果、最終的に城壁のような形で掘り残された物で、石切り場跡だという事が確認されている。凝灰岩の鎌倉石は鎌倉の寺社仏閣等の階段等でよく見られ、削りやすい事から、人が歩き削れ、でこぼこな状態になる。この様に鎌倉石の石切場の一つだった事が窺える。また、大接岸が防御目的ではなかったと即断することは出来ず今後の研究等にゆだねられることだろう。なお、お猿畠と言う地名は、鎌倉を追われた日蓮がこの付近で三匹の白猿に助けられたという伝承に由来する事らしい。
ボランティアの方々の御尽力によって公開が可能であり、また、色々と質問させて頂き、丁寧な説明をして頂いた。この「まんだら堂やぐら群」に対し記述する内容、課題や示唆を頂き感謝申し上げます。なお秋の限定公開は十二月十四日までで、土、日、月曜日の御前十時から午後十四時で荒天時閉鎖となっている。入園料は定められていないが自主的な寄付とされる。鎌倉駅東口京急バス三番乗り場 緑が丘入口下車、徒歩八分。
私は、帰りは大町口・安国論寺方面へ下り、晴天の中、名越切通・まんだら堂やぐら群の絶景を見て足取りが軽く帰路に就いた。
引用:『現代訳語 吾妻鏡』五味文彦・本郷和人・西田智弘編、『相模三浦一族』奥富敬之著、『名越切通』逗子教育委員会。田代郁夫著『中世の社会と墳墓』『鎌倉のやぐら』、佐藤和彦・錦照江編『図説鎌倉歴史散歩』