(写真:鶴岡八幡宮)
六、浅原事件
平頼綱は持明院統、大覚寺統の両統送立と呼ばれる皇位交換制の実質的な始まりを作ったが、その際に浅原事件が起こっている。少し、年月を遡り、持明院統と大覚寺統について述べさせていただく。
天皇の継承問題は承久の乱以降は、幕府が関与する事になり後嵯峨天皇は幕府により擁立された。後嵯峨天皇時に後深草が四歳で譲位され即位している。そして後深草天皇は十七歳の時に病を患い後嵯峨上皇の要請で正元元年(1259)十一月に弟の亀山天皇に譲位された。幕府の院評定も置かれ、院政においても関与される事となっていた。文永五年(1268)に後嵯峨上皇により、年長である後深草の皇子熈仁(伏見天皇)を差し置き亀山天皇の皇子世仁親王(後宇多天皇)が立太子となる。これらのことから後深草は後嵯峨上皇が亀山天皇を寵愛していることを感じたとされ、亀山天皇の大覚寺統と後深草天皇の持明院統との対立が生じる事となった。文永九年二月(1272)、二月騒動で揺れ動く中、次天と皇位について幕府にゆだねる形で、後嵯峨上皇が崩御される。幕府は後深草、亀山の兄弟に対し皇位の継承を決めかねて二人の母后・大宮院に諮問した。結果法皇の素意が亀山天皇にあると返答を受け文永十一年(1274)11月に亀山天皇は後宇多天皇に譲位し、亀山上皇の院政が始まった。
(写真:持明院統と大覚寺統に関与する天皇系図)
持明院統と大覚寺統は後嵯峨上皇が、皇位継承問題を後の皇統において分裂し成立したものである。しかし本来、持明院統は鳥羽上皇、待賢門院と後白河上皇を祀り、後白河上皇の長講堂領を高倉天皇の異母妹の宣陽門院(母高階栄子:丹後局)が継承し、後に後深草上皇に譲った。大覚寺統は鳥羽院と美福門院と、その子近衛らの菩提を弔う為に近衛の姉八条院が膨大な荘園群を管領した。その後、安嘉門院が継承し、安嘉門院が亡くなると、その管領を亀山上皇は鎌倉に高倉永康を送り継承を認めさせた。その手段に反発した式乾門院(室町院領)の後を継承した室町院は、一度は亀山上皇に譲る書状を書き留めたが伏見天皇に書き替えている。亀山上皇は和睦を計らい安嘉門院の所領の一部を式乾門院に割譲している。しかし、式乾門院が亡くなると亀山・後宇多の官領となった。また後鳥羽の七条院の領も孫の順徳の皇子の四辻宮善統親王が継承したが弘安三年(1280)に後宇多天皇に所領三十八ヶ所のうち二十一ヶ所を寄進し、残り十七ヶ所を安堵されている。これらの多くの荘園群を管領し、亀山・後宇多の大覚寺統は権威を誇った。これらの、持明院統と大覚寺統はいわゆる保元・ 平治の乱に関係する待賢門院と美福門院の対立を示唆しているようである。
(写真:京都御所)
正応二年(1289)三月九日に、この浅原事件が起こり『増鏡』『中務内侍日記』に記載されている。数人の武士が冷泉富小路の内裏にいる伏見天皇に危害を与えようとし押し入ったが、伏見天皇は女房の気転により内裏を脱出して無事であり、暗殺未遂事件であった。その武士たちは京極の篝屋(かがりや)を警護する武士が駆けつけ、押し入った武士達は自害した。その自害の場所が清涼殿の夜御殿(よるのおとど)の茵(しとね)の上や紫宸殿の御帳(みちょう)の内と言う天皇の座所を選び、その装束も赤地錦の鎧直垂に緋縅の鎧を着け赤鬼のような面付きであり、また、矢験(やじるし)に「太政大臣源頼為」と記されていたとされる。武士の一党は首謀者の浅原為頼とその子息光頼、為継の三名であった。浅原為頼は甲斐武田氏または小笠原氏の庶流奈古氏の一族で、ともに甲斐源氏である。霜月騒動に連座して所領を失い困窮していたが、強弓大力にまかせ諸国にて悪党狼藉を働き討伐令が出されていた。この事件の概要は窮地に立った武士一党が破れかぶれに引き御起こした事件であったようだが、すでに無足の御家人から悪党へと移る者が多くいた事が窺われる。しかし、この事件をより複雑にしたのは浅原為頼が自害に使った刀が「鯰尾」という三条家に伝わる名刀であり、三条実盛が事件に関与していると六波羅に召し捕られた。伏見天皇と関東申次の西園寺公衡は実盛が大覚寺統系の公卿で亀山法皇の側近である事から亀山法皇の意向を受けたものとし、六波羅に遷すべしとの意見も出た。しかし後深草法皇は穏便な解決を望み亀山が事件に関与していない旨を記して幕府に遣わし、事件は収められる。亀山法皇は禅林寺にて出家されており、禅林寺は後嵯峨天皇が洛東に建てた離宮であり亀山も愛用し「禅林寺殿」という名称がつけられた。それは永観堂禅林寺の付近で営まれたために付いたと云わり、この事件後寺院に改められ、寺号南禅寺とされた。
(写真:京都永観堂)
正応二年(1289)に異国警護を固める中、蒙古の襲来の噂が広がり、幕府・朝廷は降伏祈祷命令を再度発布しており、蒙古襲来に対しての恐怖はまだまだ続いていた。 ―続く
(写真:京都東寺)