鎌倉散策 鎌倉幕府の衰退と滅亡、五「得宗御内人、内官令平頼綱」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

五、得宗御内人、内官令平頼綱

 霜月騒動にて、有力御家人で得宗外戚の安達泰盛を滅ぼし、その後の幕政を陰から主導したのは内官令平頼綱である。泰盛を討った後、泰盛の政策を否定する事から始められるが、弘安徳政の追補令や類似する法令が多く出されていた。御内人は北条得宗家の家人であるため、本来、将軍の御家人との身分差が生じており、評定衆、引付衆と就任し幕政を主導することは出来なかった。これは前例がなかったという事も関与している。頼綱は寄合を主導しつつ幕府諸機関や、そこに列する者を得宗被官に監察権を与え観察者として臨み、監視を行いながら専横政治による恐怖政治を行う。

 

(写真:鶴岡八幡宮)

 弘安八年(1285)十月十七日に泰盛が発した鎮西の地頭・御家人が訴訟の為に鎌倉に参向することを禁じる発令が出されており、頼綱は弘安九年(1286)七月、幕府は九州に鎮西談議所を博多に設置して訴訟の対処と迅速化、そして統治にあたらせた。泰盛の弘安徳政の中で鎮西名主職安堵令は否定され、本所一円地住人の御家人となる道は無くなる。御家人が増える事は将軍御家人が増える事で得宗家の権力が低下する事であり、また既得権益を失う鎮西の御家人の抵抗があったと考えられる。また、神領興行例も弘安九年閏十二月に撤回・廃法となるが、その後、再び発令された。

 

(写真:太宰府天満宮)

 霜月騒動後二年がた経過する中、弘安十年(1287)十一月十一日に鎌倉に参向する御家人等を引き留める事が出来無い旨を肥前守北条為時が平頼綱宛に書状を出している。鎮西の御家人等は窮迫していた。もちろん、西国や東国の御家人も「同様に持つ者」と「持たらず者」の格差は大きく「持たざる者」は悪党へと移行する。武士たちは平安末期の不安定な状況以上に陥っていた。

 頼綱は朝廷にも近づき、当時威勢を誇っていた亀山天皇の大覚寺統を排除し、劣勢であった持明院統の後深草を上皇に据え、御嵯峨天皇の崩御後天皇家の家督を持明院統、大覚寺統の交互に交代する両統送立と呼ばれる皇位交換制が実質上始まる。これは、後に天皇家を分裂させ、鎌倉幕府を倒幕させる後醍醐天皇を生み南北朝の動乱へと進んでいく結果をもたらす。

 

「両統送立における即位順位」数字は即位順位

            |―後深草(2)―伏見(5)――後伏見(6)―光厳(10)

            |                     |―花園(8)

御嵯峨(1)― |

            |―亀山(3)―後宇多(4)―― 後二条(7)―邦良―康仁

                                   |―後醍醐(9)

 

 

(写真:京都御所)

 正応二年(1289)三月九日、両統送立において浅原事件が起こり、亀山上皇が出家する。そして平頼綱は、九月に亀山上皇の子で臣籍降下にて源氏姓を賜った鎌倉幕府将軍惟康親王を廃止し、京に送還。代わりに後深草上皇の子、久明親王を将軍とし、皇位と将軍を意のままにできるほど権勢を持つに至った。

 平頼綱は、自身の子飯沼祐宗は若干二十三歳で検非違使の任官を受け、御内人ではありえない職でもあり、源頼朝が立ち上げた鎌倉幕府の根底を崩す事である。御家人は主君の推薦を基に官位を受け、御内人は北条得宗家の家人であり、得宗家であるが、これも将軍を補佐する執権であり、将軍の推薦なくし検非違使の職を受ける事は本来において許される事ではなかった。

 

(写真:天園ハイキングコースから見た鎌倉市)

 正応四年(1291)八月、特別な訴訟を優先する手続きが定められる。それは寺社・公卿等の訴訟について早急に審理を進める事を奉行人と五方引付に指示する事で、それでも遅延の際は、飯沼資宗、大瀬惟忠、長崎光綱、工藤杲禅、平宗綱に訴える事が認められた。訴訟遅延に対する対策として考慮する面もあるが、この五人は得宗被官の御内人であり、資宗、宗綱は頼綱の子で光綱、頼綱は親戚にあたり、不平・不平等そして賄賂等の腐敗の温床となったことは事実である。

 正応六年(1293)北条兼時、名越時家が下向し、再び北条氏の九州統治が強まった。しかし二年後兼時が病の為に鎌倉に戻り、その後九州統治は曖昧なものになる。そして、このような平頼綱の政治は同族の平氏(長崎氏)一門の御内人のみにより政務を監視させ、自身が幕府内の制度に入り込むことが出来ず、反安達氏に与した勢力は頼綱の脆さと専横政治に失望をさせる事となった。 ―続く