鎌倉散策 鎌倉幕府の滅亡と衰退、四「霜月騒動」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

四、霜月騒動

 「弘安徳政」後、徳政の本格化と共に朝廷の威信回復と旧体制の復帰を模索する動きへと移行していく。鎌倉幕府は皇位継承において文永九年(1272)二月に後嵯峨法皇が崩御し、後深草天皇の持明院統と亀山天皇の大覚寺統の両統送立政策を名目とした政治政策を行ってきたが、後に亀山・伏見両上皇の院政停止を行った事から朝廷と幕府の緊張状態を生んだ。やがて後醍醐天皇の新政に至り、鎌倉幕府討幕へと変遷していく。

 弘安八年十一月十三日に亀山上皇が制符(宣旨)を発し徳政をおこなっている。この内容について近藤成一著『鎌倉幕府と朝廷』岩波新書を引用すると「この新制は訴訟関係の規定を中心に朝廷における訴訟心理の促進を図る意欲を示す物であった。翌十二月に評定が徳政沙汰と雑訴沙汰に分けられ、徳政沙汰は毎月三回大臣・大納言により、雑訴沙汰は毎月六回中納言・参議による開催されることとなる。また、弘安八年十二月には路頭・書礼・院中の礼式が定められた。この後の公家社会の礼式の規模として重んじられ「弘安礼節」と呼ばれるようになる。亀山院政のこのような働きは朝廷における特性であり、関東における特性に呼応する物であった」。

 

(写真:京都御所紫宸殿)

 元寇後、幕府と朝廷が一体として政治改革を進めた「弘安徳政」も行き詰まりを見せ、反発する平頼綱により弘安八年(1285)十一月十七日、霜月騒動が起こる。安達泰盛は巳の刻(午前十時)、甘縄の安達邸奥の松谷の別邸におり、あたりが騒然となる気配を知り、塔の辻(現由比ヶ浜大通りの笹目の十字路)の屋敷に出向いた。そして貞時邸に向かったところ平頼綱の軍勢と遭遇し、合戦となった。使者は三十人、負傷者は十人程度であったがこの戦いは、その日に戦況が拡大し、将軍御所も延焼し、申の刻(午後四時)には大勢が決する。泰盛・宗景親子を始め、安達一族とその郎党ら五百人余りが討ち死に、ないし自害し、安達泰盛の一族が滅亡した。

 

(写真:甘縄神明宮と安達盛長邸跡碑)

 その後、泰盛の弟重景は常陸の国、泰盛の甥の宗顕は 遠江で自害している。東国においては泰盛の側近であり、伯耆守護に任じられた三浦頼連、賛同したとされる藤原相範・二階堂行景・伴野長泰・武藤景康・大曾根宗長・吉良滿氏・南部孫次郎が討たれ、他にも多くの御家人が討ち取られていく。また武蔵・上野の御家人の中には多くの自害者が出た。西国では美作・播磨でも安達氏の親族が渋谷氏の一族により捕縛され尼崎の沖に沈められている。九州においても合戦が起こり、定景の弟で泰盛の代官として肥後守護代についていた盛宗と少弐景資は共に岩戸の城にて挙兵をするが景資の兄経資の攻撃を受盛り宗は博多で、景資は岩戸で討ち死にしている。事件に連座した形で泰盛の女婿金沢顕時が四番引付衆頭人を追われ、出家し、下総国埴生(はぶ)荘にて隠棲した。また同年十二月ニ十七日、門注所執事太田時連から摂津親宗に替えられ、安達泰盛与党の摘発はしばらくの間続けられた。平頼綱に与したものとして主に佐々木氏、千葉氏、今川氏の他に同族内で両陣営に分かれて戦われている。しかし上記の滅ぼされた御家人等を考慮すれば頼綱の相当な準備がなされたと考える。

 この「霜月騒動」に対し、原因を示す資料は少なく『保略日記』は安達泰盛が源氏将軍回帰を唱え、泰盛の子宗景は祖父景盛が頼朝の子であると言って源氏姓を名乗ったことを、平頼綱は宗景が将軍に就こうと野心を抱く事と北条貞時に讒言したことから始まったとし、一説において安達泰盛の弘安改革や源氏将軍回帰において将軍惟康の権威の盛り立ても失敗しつつあり自ら将軍を作り出し安定を図ろうとしたという。まんざら有得ない話ではないかと私も思う。泰盛と頼綱が、まだ年若い九代執権の貞時に互いに讒言を行っていたようである。

 

(写真:甘縄神明宮)

 ここで、安達氏が曾祖父盛長の代から武蔵・上野の守護に任じられ、百年以上守護を務めてきた千葉・小山氏のような豪族ではなく頼朝死後の比企の乱にて比企氏の滅亡後、その基盤を受け継ぎ国内の従者を懐柔に成功した一例であり、上野国玉村御厨の玉野氏らがあげられる。武蔵・上野の御家人の自害者が多かった理由の一つであった。また北関東と比企氏同様、南関東北条氏と言った位置的基盤が対立抗争を描き後に足利・新田氏も同様に対立構造を示し、幕府滅亡を導く。 ―続く