鎌倉散策 三十九、三浦氏と宮騒動 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

東国武士 三浦一族 三十九

 三代執権北条泰時は「山内路」「六浦路」の開鑿(かいさく:開削、山野を切り開き道や運河を通す)と「名越路」の防砦化と大切岸の造成を行う。この事業に関しては通商路の拡大と軍事行動の簡便化が目的であったと考えられる。山内路は相模山ノ内草に通じ、現在の北鎌倉周辺は和田合戦後、北条義時が所領として治めた。鎌倉切通内の人口が増え物資運搬の通商路も必要であり、商業施設も限られた地域のみ営めると言う法を定めている。鎌倉での有事があった場合には即刻山ノ内荘の北条の兵が鎌倉に駆け上がる事が可能となった。また六浦道は現在の三浦半島付け根の武蔵六浦荘に続く道で以前は和田義盛領であった。これも和田合戦後、北条義時領になり、泰時の五弟金沢流北条実泰の所領となっていた。鎌倉の相模湾の浦は遠浅であるため大きな船は着岸することは出来ず、そのため貞永元年(1232)に和賀江島という人口の港湾施設が作られた。現存する世界で最古の港湾施設である。しかし、これも鎌倉の人口増加に伴い、三浦半島の東側のリアス式海岸による良港を結ぶ通商路が必要であった。そして鎌倉の有事の際、金沢流北条が即座に駆け上がる事が可能となる。比企の乱、和田合戦等が鎌倉切通内で行われ、泰時の鎌倉内での軍事力にも不安があり、この造成に踏み切ったと考えられる。そして逆に名越路においては通行を難しくするため、防砦化と大切岸の造成が秘密裏に行われた。幅は約一間(約一・八メートル)、馬一騎が通れる幅で、深さは数間あり、道を直角に曲げたりし、断崖上から矢を撃ち、巨岩大木を落とし、敵を負傷および通行が出来なくした。これは三浦半島から鎌倉に入る三浦の軍勢を阻止する目的があからさまに示している。「山内路」「六浦路」は通商路としての言い分があり三浦泰村も幕閣の議定に逆らうことは出来なかったと思われるが、「名越路」については幕閣の議定も行われず、泰時が秘密裏に行った。三浦氏にとって有事の際、三浦半島からの造兵は見込まれず、三浦泰村がこの造成を阻止する動きを見せた資料はない。

 

 延応元年(1239)に鎌倉に下向した将軍九条頼経も二十代に成長し、頼経は北条執権政体制に幕政の実権を掌握されている事に不満をいだくようになっていた。この鎌倉中期には初期に比べ武士の農地政策の転換点になっている。それは、農具、農業技術革新で多くの耕作物を作ることになったが、余剰をもたらし、商品として流通しだす。また、様々な技術革新で漆器・陶器なども大量生産できるようになった。平清盛がもたらした栄銭による貨幣経済が全国的に普及し商人が大な存在となって行く。地頭や在地武士などが、その変革に対応出来る者と対応出来無いきない者とが出来、現在と同様、格差が生まれだす。対応できない者は農民に対し、横暴に税の徴収を行うなど、各地で農民の逃避、四散、浮浪を生み、工人なども多くの職種と労働者が生まれる。その彼らが商人の供給源となり負の連鎖が始まる。末期には、その商人が御家人などに金を貸し、借金棒引きと言う徳政令を出した幕府の失政が北条氏の滅亡の一つの要因であった。

 将軍頼綱に親昵(しんじつ)した三浦、後藤、狩野、三善、上総、名越流北条(泰時の弟朝時)と執権北条泰時の足利義氏、安達景盛、義景親子などの対立が明確化してきた。足利義氏は泰時の御名婿であり、安達景盛の娘が泰時の子息時氏の室となり、四代執権となる経時と五代執権となる時頼兄弟を生んでいる。仁治三年(1242)六月十五日、北条泰時は六十歳で亡くなった。子息の時氏、時実も早くに亡くなっていたため、泰時の孫の経時が十九歳で執権となる。名越流北条朝時は泰時の弟であるが、北条時政の名越邸を継承した事等で北条での地位を得ていた。朝時自身は自重していたようであるが、嫡子名越光時や弟の時幸が四代執権経時に不満を持ち、より将軍頼経に忠誠心を抱いたと考える。

 

(写真:常楽寺と常楽寺の北条泰時墓標)

 寛元ニ年(1244)四月二十一日、突然将軍頼綱の子頼嗣が六歳で元服させ、経時が烏帽子親となり、将軍職を移譲した。頼経の発意とされるが、執権経時の強要があったと考えられる。しかし、頼綱はその後も鎌倉にとどまり「大殿」と呼ばれ、権威を有していたが、将軍派は頼綱が将軍職を辞したことにより大命無くし、大きな打撃を受けるが三浦光村、千葉秀胤らが新たに評定衆に入り、巻き返しも行われている。しかし寛元三年に入り体調を崩していた朝時が翌年閏四月一日に享年五十三歳で病死する。将軍派の代表者であった朝時の死により六十五歳の三浦義村が代表格となった。寛元三年に七月二十六日には五代将軍頼嗣七歳に経時の妹檜皮姫十六歳が婚儀を挙げ正室となり、経時は将軍外戚として立場を獲得した。これにより再び北条対三浦の鎌倉内での対立が現れる事になった。

 

 四代執権北条経時は名越流北条朝時が亡くなると同じように体調を崩し、寛元四年閏四月一日に亡くなり、享年二十二歳であった。経時は経時には二人の子がいたが、幼弱だったため経時の弟、左近将監北条時時頼が二十歳で五代執権となったが、経時の死と時頼の執権就任説には多数異説がある。北条時頼が家督相続期において、前将軍派が動きを見せる。特に名越光時と弟の時幸、備前守時長であり、時長の正室は三浦泰村の娘であった。前将軍派の三浦、名越、後藤、三善、上総などで密談が行われたとされるが、五代執権、北条時頼は威嚇行動をとりながら五月二十一日、鎌倉七口を北条勢が武装占拠を行い鎌倉に厳戒態勢を整えた。前将軍側は所領地との連絡が途絶える事になり、意気消沈の思いに至る。三浦泰村の弟光村は主戦論を打ち立てるが、泰村は三浦の兵を呼ぶことも出来ない状況において慎重論であった。五月二十五日、名越光時が謀反の嫌疑を懸けられ出家し、六月一日強硬論者であった光時の弟時幸が自害した。時頼の執権就任からわずかの間で前将軍派の壊滅を起こす手段を持ち合わせていたことに、時頼の策略と決意を窺う事が出来る。同七日、評定衆後藤基綱、藤原為左、千葉秀胤、三善保持がが解任され、保持は門柱所執事も解かれた。同十三日には光時は伊豆に流され、秀胤は上総にて謹慎させられる。ここで三浦には何の処置もされていない。『相模三浦一族』奥富孝之氏は泰村の四弟家村が一策を案じ。北条時頼館を数度にわたり訪れ三浦泰村が前将軍頼綱及び前将軍派の面々を北条側に売ったとされている。『吾妻鏡』十日、「北条時頼、邸で内々の審議が行われ時頼、北条正村、金沢実時、安達義景らが寄り合い、今回三浦泰村を加えて、内々に心中の隔たりはなく、その考えを伝えられるためである」と記載されている。三浦が引けば軍事行動を伴わず、頼時の執権体制が確保出来、前将軍派を二分することで何時でも三浦を倒せる軍事力を身に着けていたのである。これらの内容は同様に頷ける。その後、七月十一日、三浦光村は前将軍頼経の追却に自ら請負、伴って京に帯同している。―続く