鎌倉散策 三十八、三浦氏と北条氏 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

東国武士 三浦一族 三十八

 和田と三浦が結べば、強大な軍事力になっていたが、当初和田義盛に与することを承諾し、御所北門を固める同心の起請文を書いていたが、合戦直前に三浦義村と弟胤義は「先祖から八幡(源義家)に仕え、恩祿を受け、肉親の勧めに従い累代の主君を射るならば天罰は免れないであろう」と後悔し、北条義時邸に参上して義盛が挙兵したことを告げた裏切りは歴史から消える事は無い。そして実朝暗殺者の公暁に対する処断、そして承久の乱がおこり、同族相戦の悲劇が行われ、優柔不断を突き通した義村は晩年も北条の次に徹した。

 承久の乱においての没官所領は三千余所で、五年に渡った源平合戦での没官所領は五百余所であった。恩賞奉行を兼任していた北条義時は自身に「針を立つる地たりとも完了治めする事あるべからず」と述べ、自領に加えず、御家人に恩賞を与えた。北条義時の人気と名執権の名は承久の乱直後から鎌倉末期まで続いたのはこの恩賞によるものである。しかし、弟義房は伊勢守護と伊勢十六ヶ所、水田百町と二つの港がある淡路志筑荘を拝領。泰時は摂津多田荘と大和波多荘の広大な土地を拝領し、他北条庶子についても多くの拝領があった。三浦一族にも恩賞があった。義村は紀伊、河内領国の守護に任じられ、両国の守護領全てが支配下になった。子息三浦泰村は肥前神崎荘(佐賀県神崎長)を拝領、水田が三千町歩あり、海に面し対宋貿易の根拠地とした港もあった。佐原家連は紀伊南部(みなべの:和歌山県南部町)荘を拝領した。しかし義村にとって、同族相戦の悲劇が行われ、弟胤義を殺した恩賞としては安すぎる物であった。しかし、その後、三浦義村は安堵な日々を送ることが出来た。北条義時は義村の姿勢を見、和田義盛が誅殺され半減したとは故、三浦一族の軍事力を承久の乱で見せつけられた。義時の子息、正村の烏帽子親を三浦義村にさせ、義村の子泰村を実子泰時の猶子とし、再び関係を整えた。

 

(写真:寿福寺、北条正子墓標)

 元仁元年(1224)六月十二日、義時はこのところ体調を崩し、床に入り、そして翌十三日、北条義時が病死する。享年六十二歳だった。義時の後妻の伊賀の方も出家したが、その後、伊賀の方の実子である北条正村を執権に就け娘婿の一条実雅を将軍に立てようと画策したとされる伊賀氏の変が起きている。正村の烏帽子親が三浦義村で、この変にも加わっているとされているが義村が企てる力量は無い。北条正子が単身義村邸に出向き説得を行ったと『吾妻鏡』では記載されているが、それは政子が伊賀の方を追い落とす対面であり、伊賀の方の一族の追放で終息した。しかし『吾妻鏡』において義時の跡を継ぎ執権となった泰時は伊賀氏謀叛について否定し、伊賀氏の謀叛については一切記述がなく、元仁元年八月二十九日、政子の命により、伊豆北条郡に下向、籠居された、一族が配流とされた記述のみが残されている。政子は再び鎌倉が撰かに包まれることなく、泰時の執権の秩序ある移行と自身の影響力低下を防ぐための策略だったと考える。

 

(写真:鎌倉市法華堂跡)

 しかし、同年九月五日深夜子ノ刻(午前零時)、幕府北西にある三浦義村邸が全焼している。これは単なる火事なのか、それとも蜂起するための武具を館事放火したのか、北条と三浦の和睦の条件だったのか。館は全焼後、再び三浦邸として建て直されている。興味をそそる隠された歴史の一面の様にも考えられる。そしてその後、安貞元年(1227)佐原流三浦家連の娘が北条時房の五男北条時直と婚儀が行われ、翌年北条泰時の娘が三浦義村嫡男泰村と婚儀を挙げた。寛喜二年(1230)八月、三浦泰村室が亡くなると北条泰時の妹が泰村室として迎えられている。また泰時の孫小童(後の時頼)が四代将軍の前で元服し、三浦義村が理髪を務めている。

(写真:法華堂跡大江広元墓標)

 嘉禄元年(1225)六月十日、大江広元が死去し享年七十八歳、そして七月十一日には北条正子が死去し、享年六十九歳だった。これで一つの時代に終止符が打たれ、新たな時代と執権政治が始まる。同年十二月、三代執権北条泰時が頼朝死後の幕府合議制が行われたことから、それを模した評定衆が設置され宿老として義村は就任した。執権泰時は連署時房と共に各御家人から信頼を得、泰時の時代には凄惨な戦いは無かった。しかし、寛喜二年(1230)二月三十日、丑ノ刻に甲冑を着て旗を振りかざす者たちが数百騎、北条泰時の門前に集まった。泰時は「御所のあたりの騒動は、全く穏やかではない。世上の狼藉はこの様な事から起きる。まことに侍従されるべきである」と言い。北条泰時の家令尾藤景綱等により鎮められ「御命令もないのに旗を挙げるとは何事ぞ、もし野心が無ければ夜のうちに旗を進上せよ。これは武州(泰時)の命令である」と述べ、二十余名の旗が献上されたと『吾妻鏡』に記載されており、泰時の三浦に対しての軍事的示威行動をしたとも言われるが、まだ、泰時の執権としての立場が確立しようとしていた頃で、他の御家人の軍事的示威行動か忠誠を誓った御家人の集まりだったか定かではない。

 

(写真:三浦市浜浦漁協前、三浦義村の墓標)

 北条泰時は貞永元年(1232)の武士の法律書ともいえる御成敗式目を制定し義村も連署している。四代将軍藤原の頼綱が将軍宣下の後、三浦一族とも接近するようになり、義村の子、泰村や佐原流三浦と共に近臣として仕えた。義村の長子は朝村であるが、『吾妻鏡』承久四年(1222)三月八日条を最後に子息の氏村が幕府行事に名を連ねており、承久四年三月八日以降に亡くなったと考えられる。そして次子泰村が三浦党の棟梁となった。泰村は義村在命中の嘉禎三年(1237)十月に掃部権助。同十一月、武部少丞を歴任して、暦仁元年(1238)若狭守に任ぜられ幕府評定衆にも就任しており年は三十代半ばであった。そして三浦義村は延応元年(1239)十二月五日死去する。生誕が不明の為、享年も不明であり、六十九歳から七十九歳だと考えられる。承久の乱以降、義村にとって人生で一番の安寧の時期だっただろう。しかし、五代執権時頼の時代になると、再び北条は三浦泰村に牙をむけ三浦一族の棟梁となった泰村はそれに対抗する術を持ち合わせていなかった。―続く

 

(写真:三浦市浜浦漁協前、三浦義村の墓標奥の八坂神社)