鎌倉散策 三十七、三浦氏と承久の乱 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

(写真:京都御所)

東国武士 三浦一族 三十七

 承久三年五月十四日、武勇に優れた後鳥羽上皇は幕府の体制が弱くなったと判断し、「流鏑馬ぞろい」と称し千七百騎ほどの兵を集め京都守護職の伊賀光季を攻め、光季は、わずかの手勢で応戦したが、ここで討ち死にする。下人を鎌倉に事の次第を伝えさせ、わずか五日で鎌倉は事態を知ることになる。五月十五日、後鳥羽院は北条義時追討の宣旨が出した。後鳥羽上皇は三浦義村の弟胤義(三浦義村を日本国惣追捕使(にほんそうついほし)に胤義に約束)や、覚阿(大江広元)(の子の大江親広、有力御家人の小野盛綱、佐々木広剛を味方に付けた為、官宣旨を出すことにより兵力が増強できると楽観的なものだった。義村の弟胤義から決起を促す使者が送られたが、義村は、またもやここで北条義時に知らせた。伊賀光季の早急な知らせで事態を知った幕府と御家人は朝廷からも宣旨が出た事に、大いに動揺した。北条正子が御家人たちに対し、御家人の面前で鎌倉幕府創設以来の頼朝恩顧を訴え、「讒言(さんげん)に基づいた理不尽な義時追討の綸旨を出してこの鎌倉を滅ぼそうとして、実朝の偉業を引き継いでゆくよう」命じたことで動揺は収まったとされる。政子と覚阿(大江広元)は早急に軍を上洛させる事を提言し、幕府軍は五月二十二日東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向け派兵した。

 

(写真:鎌倉鶴岡八幡宮)

 東海道に向かった北条泰時は僅か十八騎で鎌倉を立ったと言う。これは博打的な要素を持った決断で、必勝を期すための判断ではなかったと考える。しかし、三浦義村は兵を整え幕府軍大将として東海道軍に加わる。各御家人は各地に所領を分散していたため、鎌倉を出た時点では兵は少ないが東海道、東山道、北陸道沿いに所領地を持つ御家人は、その地の代官、郎従を引き連れ拡大してゆく。この早急な対応は、的確な情報と迅速な対応の決断によって自治権を持った東国の武士が再び律令国家としての武士に戻ることを躊躇し幕府に味方したと考える。六月五日、幕府側と朝廷側が尾張河渡河で初めて遭遇し合戦となった。三浦義村は摩免戸(まめど)ノ渡の攻口を担っていたが弟胤義も朝廷側として摩免戸ノ渡を固めており、和田義盛を裏切った三浦の結束力はおのずと低下し、三浦一族で兄弟同士の戦が始まった。幕府側は東海道軍と東山道軍この日に集結した為、圧勝し、朝廷軍は京都に向かい退却した。その日北条泰時を総大将とする軍議が開かれ、大勢は北陸軍を待ち、京に総攻撃をかけると言う流れになったが、義村は「今はわが軍が、勝ちに乗りたり。北陸軍の到着を待って日を送れば、敵勢も防戦の構えを固め、直ちに攻めあがるべし」と述べるとその建議が受け入れられ、幕府軍は上洛戦を続け五手に別れ京への突入を図った。義村は結城朝光と共に淀ノ渡(京都市伏見)を担った。胤義は供御瀬(くごのせ:滋賀県大津市蔵土町)を固めていた。この時義村の次男泰村が宇治川口を攻める北条泰時軍に加わることになった。これに係る資料はなく推測だが義村の裏切りを拒むための人質ではなかったかと考える。ここでは三浦一族同士の戦いは無かったが、幕府側の大勝利に終わった。

 

(写真:京都宇治川・平等院)

 『吾妻』に尾張での大勝の報告は届いていない同八日、義時の館に落雷があり、人夫一人が無くなった。義時は、たいそう恐れ大江広元を招き相談している。「泰時らの上洛は朝廷に逆らい奉為である。そして今この怪異があった。あるいはこれは運命が縮まる兆しであろうか」広元は「まったく恐れる事には及ばず関東ではよい先例です。文治五年故幕下将軍(源頼朝)が藤原泰衡を征伐した際、奥州の陣営に雷が落ち、先例は明らかですが、念のため占わせてください」と述べ、安倍親職、泰貞、宣賢の陰陽師に占わせ最も吉と一致して占った。義時の小心さが語られている。

 『吾妻鏡』には宇治、瀬田の合戦には幕府側は十九万騎の軍勢に膨れ上がったと記載される。朝廷軍は藤原秀康が総大将で一万七千五百機余りであったと言われ宣旨により兵力の増強は遅れたか、また宣旨に対する増兵の影響力が無かったかと考えられる。六月十三日、宇治川で朝廷軍と幕府軍が衝突するが、幕府軍は知らせを受け僅か二十二日で鎌倉から京都に布陣した。朝廷側は甘い判断により兵力が集まらず、即効的な決断を下した幕府軍は見事に朝廷軍を破った。十四日に幕府軍は京になだれ込み、幕府軍は寺社、公家武士の屋敷に火をつけ、京の民にも甚大な被害を与え略奪暴行を働いた。

 

(写真:京都東寺

 『承久記」によれば、院は御所の門を閉ざし、最後の一戦に駆けつけた朝廷側の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠を門に入れなかった。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と憤慨したと言う。上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てとし、義時追討の院宣を取り消し藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らの捕縛を命ずる院宣を下した。藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は東寺に立てこもり抵抗をしたが、三浦義村が攻め同族相戦の悲劇が始まった。三浦胤義は戦い太秦の自邸に退く途中、二騎にまで討ち取られ、木島(このしま)神社で包囲され胤義は自害し、その首は北条泰時本陣に届けられた。山田重忠は嵯峨野般若寺で自害、藤原秀康は河内国で捕縛され、承久の乱は終息した。後鳥羽天皇は隠岐へ、順徳天皇は佐渡へ、配流され、その地で崩御される。討幕反対派の土御門天皇は自ら土佐へ、後に阿波におもむかれた。この乱は朝敵として院宣を受けながら朝廷に勝利した初めての乱であり、後に足利尊氏にも繋がる事件であった。

 結果的に朝廷側に立った公家・武士の荘園所領を没収し、幕府側の御家人に配分され、御家人はより結束を固めた。また幕府は京都守護から六波羅探題を設置し、朝廷及び西国武士の管理を強化した。朝廷の後継問題にも関与するようになり、朝廷側は詳細な問題においても幕府に伺いを建てなければならなくなり、幕府は朝廷との二元政治を一元化する事が出来た。義時を中心に鎌倉幕府の本格的な執権制度が始まった。―続く