鎌倉散策  三十六、三浦氏と新将軍 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

東国武士 三浦一族 三十六

 私自身、実朝暗殺は通説の公暁の単独による父頼家の仇と自身の将軍職の就任を狙ったと考えるが、義時がこの暗殺の計画を知っていたと考える。実朝の後継者にも、ある程度目途が立ち、自身が何もせずとも権力が掌握できれば、また事の成り行きで、三浦一族を討つことも出来ると考えたのではないか。三浦が関与していたならば暗殺が決行される前に何らかの軍事配備を行っていたと思われるが、それらの資料はない。そして三浦義村においてもその決断は出来なかっただろうし、突然の公暁の行動に困惑したと思われる。しかし、実朝暗殺日に急遽御剣役を後退したことが、この時期の大きな疑問として残されている。また、北条義時において誤算が生じたのは承久の乱である。鎌倉幕府前期において危機的状況の中、決断を迫られた大博打であったと考え、三浦にとっては命拾いの乱であった。

  

 この時期の朝廷と幕府の概要について述べさせていただくと、東国武士を中心として樹立した鎌倉幕府の成立後、東国において守護、地頭を置き、警察権、裁判権、行政権、一部の立法権を掌握していった。しかし、西国においては、まだ朝廷の権力が強く平家に加担した貴族、武士の所領に関しては守護・地頭を置く事が出来たが、幕府と朝廷の二元政治が続いていた。頼朝が幕府を樹立させた目的とし、天皇による政治を維持しながら武士を束ね、軍事・警察権と武士に対する司法・立法権を掌握し、武士の所領においては所領権、統治権を認めさせることであったと考える。そして武士は将軍(棟梁)の臣下と位置付ける事だった。しかし幕府と朝廷の二元政治の為、東国の荘園などに幕府地頭が置かれたが年貢の未納などが発生し、幕府での地頭等の評定と裁定が多く行われたが、荘園領主の後鳥羽上皇や貴族等が紛争を起こすようになっていた。そして、幕府は三代将軍源実朝が公暁により暗殺され、新将軍を擁立し、二代執権となっていた北条義時を姉の政子が補佐する体制に至った。鎌倉では、公暁に関与した僧や御家人の捜索が行われ、京都の治安維持に御家人を上洛させた。

 

 元年(1219)二月十三日、幕府、二階堂行光を京に上洛し、六条宮(雅成親王)と冷泉宮(頼仁親王)のどちらかを将軍として下向されるよう禅定二位家(政子)の奏上を伝えた。閏二月十二日、二階堂行光が鎌倉に戻り、院からは閏二月四日、「親王のどちらかを下向させよう。ただし今すぐにはいかない」と命じられた。三月九日、(藤原)、忠綱朝臣が上皇の使者として鎌倉に下向した。院の愛妾亀菊の所領である摂津の長江(大阪府豊中市豊南町付近)・倉橋(稲川に対岸する兵庫県尼崎付近)の地頭職の撤廃と御家人である西面武士で御家人の仁科盛遠の処分の取り消しを条件とした。義時はこの対応により幕府の根幹を揺るがす事と拒絶を決め同十五日、二位家(政子)の使者として北条時房が一千騎を伴い上洛し、将軍下向を求めた。武力的背景により朝廷と幕府において、新しく後継の新将軍において調整に難航するが、義時は皇族の将軍をあきらめて摂関家の九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を迎え、政子が後見とし、義時の執権を中心とした政務を執る執権体制を整えた。朝廷と幕府間では、しこりが残る選択であったと考える。

 

 七月十九日、三寅二歳、(後、経頼)鎌倉に下向し、政所始めが行われ、三寅は幼いため二品禅尼(政子)が理非を簾中から裁断した。同二十五日、内裏守護の源頼重(源頼政の孫)が後鳥羽院に背いた事で、西面武士に攻められ仁寿殿に籠り自害したと言う。この時、宜陽殿・校書殿等の内裏の多くの施設が焼失している。『吾妻鏡』には院に背いた内容は記載されていない。諸説では頼重が将軍に付くことを図った為。しかし是は幕府内の問題のため、西面武士を動かすことに疑問がある。また後鳥羽院が鎌倉調伏のため加持祈祷を行っていた事を頼重が知った為、院に殺されたともいわれ、祈祷が行われたと言う最勝四天院が取り壊されている。次第に朝廷と幕府間は緊張を高めていった。―続く