鎌倉散策 四十、三浦氏と安達景盛 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

東国武士 三浦一族 四十

 寛元四年(1246)七月二十八日、四代将軍であった九条頼経は京と大津を結ぶ京の七口の一つ粟田口から京に戻った。鎌倉では、八月一日に宮騒動で三善康持が失脚し、問注所執事に太田康連が任じられた。太田康連は三善系太田氏の祖とされ、評定衆の一員となり、北条泰時から御成敗式目の条例制定の中心人物として携わった。天福三年(1233)十二月に賀茂社秀三の功績により民部大丞に任じられ、従五以下に叙せられ、失脚した康持は甥にあたる。

 

 八月十二日、九条頼経を京に戻る供奉をしていた北条時貞が鎌倉に戻った。同行した三浦光村は頼経の御簾(みす)の際に留まり数刻退室せず、二十余年の間側近にあった名残りの為、涙を流した。その後、光村は「ぜひとももう一度、鎌倉に入れ奉ろうと思う」と人々に語ったと『吾妻鏡』に記載されている。同十六日鶴岡八幡宮で放生会の馬場の儀が行われたが、流鏑馬の射手の一人が体調を崩し馬乗出来なくなった。将軍頼嗣の下で審議が行われ三浦家村が変わり射手を命じられた。家村は「亡父義村が生きていた時、私が壮年の祭に十二度この役を務めましたが忘れ果てて多年が過ぎています。たとえ日頃、練習を積んでいたとも、すでに年老い決して勤めることは出来ず、まして当日行う事等は荷が重すぎます」と丁重に断った。将軍頼嗣は泰村に命じ「絶対勤めさせるように」と命じた。泰村は家村に向かい速やかに命に応じるように何度も戒目の言葉などを加えた。家村は「ただいまは騎射する馬がございません」と述べるや、泰村はこれらの事態を想定し「深山路」という名馬を用意していた。家村は逃れるすべを無くし、自ら敷皮を取り馬場下手の埒に(らち)に沿って流鏑馬舎に向かった。深山路に乗り、第四番の打出に進み出、三的の際に至った。その姿は優れた射手にも引けを取らず、他門の者の人々は称賛し、その場は見事な者で有った。将軍頼嗣から何度もお褒めの御使者に預かった。十月十九日には将軍頼嗣が御浜出を行われる決定があり、然るべき射手の交名(きょうみょう:名簿)などが選定され三浦家村が奉行と決まった。

 

九月一日に時頼は泰村に対し六波羅探題の北条重時の鎌倉帰還を打診している。これはおそらく評定衆に加え、より北条執権体制を強固なものにし、後の得宗専制政治に移行する事でもあった。もちろん三浦氏の執権外戚の地位から外す穏便な対応であったが、泰村は、それは適当ではないと拒んでいる。北条に次ぐ権門は三浦氏であり、安達景盛は時頼の執権の下で時頼外戚をとして次席を与えられ見込みであったが、これにより給与されなかったことに三浦氏に対し憤懣を募らせた。

 

 宝治元年(1247)になると「由比ヶ浜の潮、色を変じ、赤くして血の如し」と流言が鎌倉十に流れ、「乙丑。戌の刻に大流星あり、艮(うしとら:東北)より坤(ひつじさる:西南)に流る。音あり。長さ五丈。大きさ円座のごとし、他に比べようなし」という天変が鎌倉中で語られた。そして十六日深夜、戌の四点に鎌倉の大路小路を騎馬武者が駆け回る。さらに十七日、「鎌倉中、黄蝶が満ち溢れた。承平年間には常陸・下野で、天喜年間にも陸奥・出羽四ヶ国でその怪異有、かつて将門安倍貞任の乱の直前、この怪異あり。されば東国での兵乱の兆しか。古老は疑った」と不気味な流言が流れた。三浦義村もそれが自身について語られていることを感じ始めた頃四月四日、景盛が高野山から鎌倉に戻る。

安達景盛の父は安達盛長で源頼朝の流人時代からの側近であり、藤原氏魚名流を称する。奥州合戦に従軍し、その以降に陸奥国(福島県)を領し本貫したことにより安達姓を名乗った。景盛は実朝の死を悼んで出家し高野山に入り大蓮房院覚智と号し、金剛三昧院を建立し康や入道と称される。三浦氏と安達氏において、摂津源氏の棟梁の頼義、義家に伴い前九年、後三年に従軍した三浦氏の家格は上回り、また、頼朝挙兵後においても後の幕府の窮地においての武功は安達氏を上回る。安達景盛の娘が北条泰時の子時氏に嫁ぎ北条経時・時頼兄弟を生んだが、寛喜二年(1230)六月に時氏が病死すると出家をし、松下禅尼と名乗り安達に戻った。今や頼朝以来の有力御家人は三浦氏と安達氏になっており、安達景盛の三浦氏に対する対抗心は常軌を逸していた。

 

(写真:鎌倉市甘縄神社)

 四月四日、安達景盛は高野山から鎌倉甘縄の自邸に戻り、何度も孫にあたる時頼邸を訪れたが、その内容は不明である。しかし、同十一日北、時頼邸を訪れ時頼の面前で一族を叱責している。「三浦の一党が今は武門に優れ傍若無人である。次第に時が経てば、我らの子や孫はきっと対抗できないだろう誠に考えを廻らすべきところ、義景と言い、泰盛と言い今劣期の怠惰で武備を怠っているのは、けしからぬ」と述べた。五月六日、北条時頼には子は無かったが二十一歳でありながら北条泰村の次男駒石丸(後の三浦景康:宝治合戦で自害はせず逃亡し沼田氏の祖となる)を養子とする約束をした。三浦泰村にすれば青天の霹靂の様な申し出であり、喜んだ泰村はすぐに応諾した。これは時頼が三浦に対し好意を寄せながら、人質を取ると言う巧妙な策略で、実際に養子にしたかは疑問が残る。翌年五月二十八日には将軍頼嗣月の女官讃岐の局が時頼の長子宝寿丸を生んでいる。五月十三日、北条時頼の妹で将軍為継の正室だった檜皮姫が十八で亡くなった。その夜、時よりは三浦泰村の館に御軽服のため移られた。この泰村は時頼に敵意がない事を思い安堵したに違いない。しかしこの時頼の行動の本質は解らない。同十八日庚午、夕方、光る物が有り、西の方角から東に飛んだ。その光はしばらく消えなかった。その時、秋田城介(安達)義景の甘縄の屋敷に白旗が一本現れ、人はこれを見たと言う。―続く