鎌倉散策 八、三浦氏と鎌倉氏  | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

東国武士 三浦一族 八

(写真:御霊神社・梶原、坂の下、大善寺・不動井戸)

 

 鎌倉源五郎景政は桓武平氏良文流の良文の次男忠通の次男、章名、または鎌倉氏を名乗る景通の孫で長江氏、大庭氏、長尾氏、梶原氏の祖となる。鎌倉の梶原、坂の下にある御霊神社は鎌倉源五郎景政を祭神として祀っている。鎌倉で有名な御霊神社は坂ノ下の方であるが、所領などや社伝について考えると梶原の御霊神社が元で坂ノ下は後に建立されたらしい。

   

 景政は十六歳の時、永保三年(1083)、後三年の役で源義家に従い奥州に従軍した。金沢棚(秋田県)を攻めた際、影政が右目に矢を射られながらも奮戦した逸話が『奥州後三期』に残されている。また、陣に戻り見方の平為継に矢を抜いてもらう際、景政の顔に沓のまま足をかけた。景政は「弓矢で命を落とすのは武士の本望だが、土足で顔を踏むとは何事か」と叱責し、ひざまずかせ抜かせたと言う。為継と景政は年の離れたいとこ同士が叔父・甥である。為継は当時三十六歳、景政当時十六歳とされ、年長者に対し、無骨でありながら東国武士の精神を象徴するような逸話である。

 

 先陣を切ったのは為継であり、矢は当たらなかった。その理由とし衣笠城跡の衣笠山中腹に小さな不動堂があり、本尊箭執(やとり)不動、矢除明王と呼ばれ、為継が祀ったとされており、大善寺はこの不動堂の別当時とされ、現在の、大聖殿がそれであると言う。昭和三十年代に発掘調査が行われ大聖殿の間近の地中から経塚に関連したと思われる石が発見されている。しかし、不動堂の位置は不明である。

 

 後三年の役は清原一族の内証に乗じ源義家が起こした。朝廷は後三年の役を義家の私戦ととらえ、観賞、戦費の支払いを拒否し、さらに義家を陸奥守から解任させた。後三年の役の間、黄金等の貢納を戦費に回していた事や官物から兵糧の支給を行った為、官物未納を咎められ、受領功過定(ずりょうこうかさだめ:任期を終えた受領に対する成績調査)を通過することが出来なかった。その事から義家は新たな官職に付けず、十年後の承徳二年(1098)、白河法皇の意向で受領功過定が下るまでその未納分は請求され続けた。関東から従軍してきた諸氏に対しての恩賞は私財を投じ出された。この事で関東においての源氏の名声と信頼関係を高め、後の源頼朝による幕府創建の基礎とされる。

 

 三浦一族は、『吾妻鏡』の建保元年(1213)五月二日条、和田義盛の乱において「嚢祖三浦平太郎為継」と有り、為継をもって三浦氏の祖氏ととらえている。