鎌倉散策 九、三浦義継と源氏の衰退  | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

東国武士 三浦一族 九 (写真:大寳寺)

 京における政治は藤原氏を中心に行われた摂関政治が終わり天皇の父、またわ祖父が実権を握る院政が始まった。白河法皇は西国に地盤を持つ桓武平氏を積極的に登用し源氏の勢力は衰退していった。

 

清和源氏系図

清和天皇―貞純天皇―経基―

満仲―頼光―頼国―頼綱―仲政―頼政(多田源氏)

 |―頼信―頼義―義家――義宗―義親

        |  |―義国――義重(新田氏)

       |  |   |―義康(足利氏)

        |  |―義忠―為義―義朝――義平

        |         |  |―朝長

        |         |  |―頼朝――頼家

        |         |  |   |―実朝

        |         |  |-範頼

        |         |  |―義経

        |         |―義賢―義仲(木曽)―義高

        |         |―為朝

        |―義光――義業(佐竹氏))

        |―義清(武田氏)

 中央の源家の勢力衰退は河内源氏の基盤であった東国にも影響を及ぼした。源氏惣領家の勢力を割り、権威を喪失させ、所領による紛争も再び激化していった。義家の次男義親が西国で乱を起こし、三男義国が常陸の国で叔父の新羅三郎義光の郎党と私戦を演じ、義家に義親・義国の追討が命じられる。この時は義家が死に父子を討つ悲劇は避けられたが、代わり平氏が勅使を受け追討し、平氏の勢力が強化されていった。義家の死後、四男義忠が河内源氏の棟梁になるが、天仁二年(1109)二月、新羅三郎義光により暗殺され、為義が衰退期の源氏棟梁になった。

 

 河内源氏の基盤である東国において、新羅三郎義光は東国に逃げ、甲斐の武田氏、常陸に佐竹氏を起こした。義家の三男義国の長男が上野に新田氏を、次男の義康が足利氏を起こす。義家の死により父子を討つ悲劇話避けられたが、いずれ保元の乱で為義・義朝の父子の悲劇を予想させた。同族間の不祥事、内紛が源家の勢力を失墜させ、桓武平氏高望流坂東平氏の嫡流伊勢平氏の平正盛(六波羅流平家)・子の平忠盛(清盛の父)は六波羅流平家を束ね、結束し繁栄していく。しかし、その裏に白河院の藤原摂関家の力を削ぎ落す目論見が動いていた。

 鎌倉市大町にある日蓮宗の大寳寺は後三年の役で新羅三郎義光が兄義家と共に鎮め、甲斐守になり、この地に屋敷を構えた。以来子孫の佐竹氏の居館となるが、室町期の応永六年(1399)に佐竹義盛が出家し、屋敷傍に多福寺を建立し、それが前身となった寺院である。境内には新羅三郎義光ゆかりの他福神社が残されている(詳細は令和元年十一月十八日「鎌倉散策 大寳寺(だいほうじ)」にて記載)。

 

 河内源氏の東国における惣領家の勢威も低下していく中、三浦氏は為継の子義継が棟梁となり、相模国三郡を所領とし、三浦荘司、三浦介を称した。安房国の安房郡西岸一帯を義継の弟とされる安西氏が所領とした時期でもあるが、源家が衰退期に入っていたため、三浦氏も低迷期であった。しかし、源為義の嫡男義朝が、康治年間(1143-4)に東国経営に乗りだし、勢力の回復を目指した。それを支えたのが源家累代の家人、三浦義継(当時五十一・二歳)であった。 ―続く