鎌倉散策 七、三浦氏と後三年の役 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

東国武士 三浦一族 七

 前九年の役では源頼義に味方した出羽の清原武則が陸奥国の安部氏の後を受けた。前九年の役当時、清原光頼からその弟武則に移り、その息子武貞、その嫡子真衡と受け継がれていた。武貞に前九年の役で敗れ、処刑された藤原経清の妻(有加一乃末陪:安部頼時の娘)を自身の妻としていた。妻の連れ子を武貞の養子として清原清衡を名乗らせ、後に奥州藤原三代の祖となる。

 

 武貞の死後、清原氏の惣領を継いだのは嫡子真衡で嫡男が無かった為、海道小太郎(平繁盛の子、安忠を父とする)を迎え、成衡と改名した(後、所在不明になる)。清原真衡は桓武平氏と姻戚関係が出来た。また、常陸国から源頼義の娘とされる女性を成衡の嫁にしたと言う。『奥州後三年記』には前九年の役で奥州へ向かう際、平国香流の平宗常基の娘に産ませた娘とある。常陸平氏、河内源氏との姻戚関係が出来るが、奥羽、陸奥の清原氏、安部氏の血統から外れていく。

 

 成衡の婚礼に出羽から真衡の叔父吉彦秀武が砂金をもって訪れた。真衡は碁に夢中で秀武を無視し続け、その対応に怒かった秀武は砂金を庭にぶちまけ出羽に帰ったと言う。真衡は秀武と不仲であり、真衡は秀武討伐軍を起こした。秀武は家衡(真衡と同母弟)、清衡に密使を送り、秀武と共に真衡の所領白鳥村を襲い焼き払った。その後、真衡の館に迫るが真衡が秀武討伐に向かっており、その知らせを聞き引き返した。真衡の行動を知った家衡、清衡その場を離れ自領に後退する。永保三年(1083)の秋、源義家が陸奥守を拝命し陸奥国へ入り、真衡は義家を歓待し国府の多賀城で三日に渡り酒宴を開いた。真衡不在に際し、家衡、清衡は、真衡の本拠を攻めるが、国府が真衡に加勢したため家衡、清衡は大敗し、国府に降伏する。真衡は直ちに秀武を討伐する為、出羽に軍を進めるが途中、病にて急死してしまった。

 

 真衡死後、義家は真衡の所領であった奥羽六郡を家衡、清衡に三郡ずつ分け与えた。しかし、家衡はこの裁定に不満を持ち清衡の館攻め清衡の妻子一族が殺されてしまった。生き延びた清衡は義家に訴え、助力を得て家衡の立てこもる沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)を攻撃した。季節は冬で十分な攻城戦の準備をすることが出来ず清衡、義家の軍は敗れた。これが後三年の役の始まりである。

 

 前九年の役で安部氏の後を受け継いだ清原武貞の弟清原武衡が家衡勝利の報を聞き武門の誉れと駆けつけた。そこで難攻不落と言われる金沢柵(横手市金沢中野)に移ることを進めた。寛治元年(1087)、義家・清衡軍は金沢柵に移った家衡、武衡の軍を攻撃する。しかし難攻不落と言われた金沢柵を中々攻め落とすことは出来ず、吉彦秀武(清原武衡の義理の兄弟)の策で兵糧攻めを行う。金沢柵を包囲したまま冬に移り、飢餓に苦しむ女子供が投降する。義家は当初助命を試みたが、兵糧が無くなることを恐れ、皆殺しにした。そのため柵内から投降する者がいなくなり、兵糧の尽きた家衡が金沢柵に火をつけ敗走し、家衡は下人に扮して逃亡途中に討ち取られ、武衡は蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところ捕らえられ斬首された。後三年の役が終わったのが元治元年(1087)十一月十四日である。

 

 義家の陸奥への勢力拡大は無さなかった。滅亡した清原氏の後、清衡が藤原姓に帰り藤原清衡を称し奥州平泉の藤原三代の栄華が始まる。―続く