鎌倉散策 六、三浦為通 衣笠城 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

東国武士 三浦一族 六 (写真:衣笠城。大善寺)

 三浦為通は桓武平氏良文流、村岡五郎平の忠通の嫡男で通称三浦平大雄、別名三浦為名とされる。生誕は寛弘七年(1010)死没は保永三年三月十四日とされている。前九年の役で源頼義に従軍し、戦功をあげ恩賞として三浦の地を与えられた。為通は所領とした三浦の地の中心の地である要害堅固なこの地に両側を自然の堀とし、康平年間(1058~1064)に衣笠城を構築したと言われる。
 

 平安期の山城は石垣や天守は無く、広陵状の一番裾が衣笠城の大手口で、緩やかな坂を登って滝不動に達する。居館は水の使い便の良いこの付近の平場にあったとされ、一段上に不動堂と別当大善寺があった。さらに、その裏山がこの城の最後の拠点となる詰の城であったとされる平場で、金峯山蔵王権現を祀った社が存在したと言う。また、その西側の最も高い場所が、物見岩と呼ばれる大岩があり、その西が急峻な谷になっている要害の地形を利用して一部に土塁や空堀の跡が残されている。以降為継、義継、義明の四代にわたり三浦半島経営の中心地であり、河内源氏譜第の家臣として仕える。

 

 治承四年(1180)八月に源頼朝の旗揚げに際し臣下として仕えるが、平家側の大軍によって責められ、笠合戦としての攻防戦は有名である。当時の城主三浦義明は嫡子義澄を頼朝と再興させるため逃がし、少数の兵をもって衣笠城で攻防戦を行いこの地で討たれた。現在の城跡はその後、北条氏に対抗する為鎌倉時代に大改造されたものであるが、基本的な城の形態は残されている。このように、この地一帯は平安後期から鎌倉前期の山城で鎌倉時代の幕開けを物語る貴重な史跡であり、横須賀市指定史跡になっている。しかしこの衣笠城を訪れた際、高速道路の入り口近くにあるため城に向かう道がなかなか見つからず苦労した。また急な坂道を登り大善寺にやっと着く、その横から裏に続く段を登ると衣笠城跡にたどり着いた。城跡には御霊神社も祀られており、ここで果てた武士たちの霊を祀っているのだろう。

 

 大善寺は現在曹洞宗寺院であり山号寺号は金峯山不動院大善寺と称し、創建は天平元年(727)諸国行脚(あんぎゃ)中の行基が金峯山蔵王権現と自身が彫った不動明王をこの山に祀り別当寺を建てたのが大善寺である。その際、祭礼に使う水に困り、行基が杖で岩を討つと清水がわき出したとされ不動井戸として今も残る(引用:横須賀市教育委員会、衣笠城跡)。

 阿弥陀三尊像は檜在一木割矧造(いちぼくわりはぎつくり)で一木の材で彫るが途中で縦半分に割り、中空としてつなぎ合わせる。彫眼で制作時期は十二世紀の平安末期と推定される。像高は八十九、二センチ。裙(くん:下半身を巻く一枚の布)を着け袈裟を偏袒右肩(へんだんうけん:左肩に覆い、右肩に僅かに掛ける)にまとい、来迎印を結び、結跏趺坐(けっかふざ:両足の甲を反対の足の腿に乗せる座り方)。脇侍の観音菩薩像は像高八十九、二センチ。死者の魂を乗せて運ぶと言われる蓮台を両手で捧げ持つ姿で、右足の膝を軽く屈折させ前に出す来迎の動きを見せている。勢至菩薩は像高九十一、一センチ。胸部で合掌する。阿弥陀三尊は明治期まで本尊として祀られており、それ以降は不動三尊が本尊として祀られている。阿弥陀三尊による浄土信仰は平安末期から一般的になるが、本像は三浦半島で最古の遺存例である。

 

 木像伝毘沙門天立像は檜寄木造りで玉眼を嵌める。制作時期は平安末期から鎌倉初期と推定される。像高九十二センチで髪を垂髻(すいけい:頭頂部を束ね、根元と、その上部二カ所を結い、その上を垂らす)に結い右手を高く上げ、腰をひねり、眉をひそめて左斜め下方をむく。この様な姿形は岩手県の中尊寺金色堂正面段に安置されている増長天立道と様式的に著しく一致しており、本像最大の特徴となっている。『吾妻鏡』文治元年81189)の奥州合戦の折、中尊寺諸院の壮大な伽藍に感嘆した頼朝は鎌倉に戻り、戦いで亡くなった全ての兵の霊を慰めるため中尊寺二階大長寿院を模倣し鎌倉に永福寺を建立する。奥州合戦に三浦一族も参陣し永福寺奉行人筆頭となる三浦義澄をはじめとして頼朝同様に平泉の仏教文化をに多大な影響を受けたことが本像製作のきっかけとなったであろう。中尊寺金色堂の仏像は平安末期に平泉を中心として東北・北関東に分布しているが本像は南限であり、鎌倉文化圏における平泉仏教文化の影響を受けた唯一の仏像である(引用:阿弥陀三尊像、木像伝毘沙門天立像、横須賀市教育委員会)。

―続く