東国武士 三浦一族 三
平良文(よしふみ)は高望の側室の子で有り在京していたが延長元年(923)相模の賊を討伐する勅命を受け相模に進出する。良文は相模の賊を討伐し、所領として、武蔵国熊谷郷村岡に着く。そして鎌倉郡村岡、下総国結城郡村岡に所領を持ち、阿玉郷で没したとされる。また現在の千葉県東庄町大友居城があったと『香取郡市』に天慶三年(940)五月に相模村岡から、この地に来て築城。その後、忠常(常持)常将、常兼四代(千葉氏、上総氏の祖)の居城となった。
東国の地において桓武平氏の所領地が拡大してゆくが、良文の遺兄良将の子平将門が天慶二年(939)に天慶(てんぎょう)の乱を起こす。天慶の乱の発生について諸説ある。まだこの時代に嫡子による相続権が確立されておらず、父良将が亡くなった後、叔父である高望流平氏宗家の国香・貞盛親子、良兼に独断で所領分割されてしまった。将門がその頃、京におり、すぐさま東下する。平国香が上野国花園村(現群馬県高崎市)の染谷川で将門を襲撃を企てるが、国香の弟の良文・忠頼親子が甥の将門を助け、打ち破り、国香は討たれる。これが平将門の乱の始まりであり、天慶の乱を起こす。国香の子貞盛は母方の藤原秀郷の助けを借り、天慶三年(940)二月十四日、優勢であった将門に貞盛側からの流れ矢が額に当たり討ち死にし、乱は終わった。将門が生きていれば東国の歴史、いや日本の歴史が変わっていた事は言うまでもない。
天慶の乱の前に承平八年(938)、武蔵介として清和源氏初代の源経基(つねもと)と武蔵権守興世王(おきよおう)と共に赴任した。その際、在郷の足立郡司で半代官の武蔵武芝に検注(国司がその任地に赴任した際その地の有力者から受け取る貢物・賄賂)を要望。武蔵武芝は正任国司が赴任前に検注が行われる慣例が無いため、断ると経基は武蔵無芝の郡家に兵を繰り出し、襲撃し、略奪行為を行った。この件につき平将門が私兵を伴い武芝に入り調停を行う。経基は武装し、妻子を連れ比企郡の狭服山に立てこもった。しかし、興世王は山を下り、足立郡司との和解が成立し酒宴まで行われた。経基は武芝の兵が経基営社を包囲したとし、討たれると思い慌て京に逃げ帰り朝廷に平将門、武芝、興世王が共謀し謀叛を興していると朝廷に讒言する。翌年、常陸、下総、下野、武蔵、上野五か国の国府による謀叛は事実無根との届を藤原の忠平に送り、将門らの無実が認められた。逆に経基は讒言の罪で左衛門府に拘禁された。しかし天慶三年(940)、将門の乱が起こると赦免され、従五位以下に叙され、征夷大将軍藤原忠文の副将として平定に向かうが、東下の途中に将門討伐を知り京に帰る。この男の強運は、これにとどまらず天慶四年(941)追補賊使となり、藤原純友の乱にも平定に向かうが、これも鎮圧され、純友の家臣桑原生行を捕えるのみだった。しかし、武蔵、信濃、筑前、但馬伊予の国司を歴任し、鎮守府将軍にまで上り詰めている。藤原兼家が花山天皇を退位させた時にも邪魔が入らないように経基の長子満仲が警護し事件の陰で働いた男である。子の満仲が藤原北家の摂関政治の確立に貢献し京における武門の地位を構築し、摂津国川辺郡多田の地に所領を得、多田源氏の祖である。満仲の子が頼光、頼親、頼信で父満仲と同様藤原摂関家に仕え勢力を拡大させていった。その後、頼信流が河内源氏として源氏の主流となり、東国の武士団を束ね、源頼朝へとつながる。
将門の乱後、貞盛流平氏と良文流平氏は敵対関係になり、両祖の高望流平氏宗家において貞盛流平氏は嫡流として平直方が東国に残り熊谷氏の祖とされる(北条氏も祖を平直方とする)。四男維衡は伊勢平氏(正盛、忠盛、清盛)として発展していき。良文流平氏は東国において拡大し、やがて子孫は中世において戦う事になる。
―続く