東国武士 三浦一族 四
長元元年(1028)六月、良文流平氏で良文の孫にあたる平忠常は安房国の国府を襲い、貞盛流平氏貞盛の孫の安房守平維忠を焼き殺す事件を起こし、長元の乱(平常忠の乱)とされる。常忠は傍若無人に振る舞うことがあったとされ、官物の納税も怠った。長元の乱の原因は不明で受領との対立が高じたものと考えられる。
当時は朝廷の国衙と在地豪族の小競り合いは多数あったが、朝廷により話が進められ納税等を行う事で免赦されることがほとんどであった。しかし、房総三ヵ国にまで広がり、朝廷は追討使として平直方に討伐を命じる。忠常は上総の地の要害に籠り戦い、直方は平定することは出来ず、長元三年(1030)九月に朝廷は直方を召喚し、代わりに甲斐守源頼信を追討しとして任じた。源頼信は河内源氏の祖であり嫡男頼義を伴い東国に向かった。長元四年(1028)平忠常の軍は長期の戦で疲弊し、忠常はかつて頼信に仕えていた形跡ある。軍事貴族に変貌していた頼信に降伏した。頼信は忠常とその子常将、常近を連れ京へ向かうが、忠常は美濃国で病死してしまう。京において常将、常近は赦免され下総に戻る。常将は千葉氏の祖である。
平良文の子、平忠通は源頼光とその弟の頼信に主従関係を結んでいる。それは、当時、従属的な関係ではなく、同盟関係的な主従関係で有り、この頃の桓武平氏は東国の領地開拓者で武士集団を形成していた。東国において所領を拡大させる中、所領安堵の為に京都の有力者である藤原北家の嫡流ともつながりを有し再三上洛をしていた。しかし清和源氏は源経基の子満仲が京における藤原北家の嫡流のつながりにより貴族の警護等を行う武士集団を形成していた。もちろん所領は畿内に持ち、多田源氏、河内源氏、嵯峨源氏等その地の名称により別れて行った。長元の乱において平忠通が参戦したかは定かでないが、忠常の子常将、常近が赦免になったのは忠通の働き掛けがあったのではないかと考える。
頼義は平忠常の乱の平定後、長元九年(1036)に相模守に任じられ、源頼義は清和源氏の河内源氏二代棟梁で武勇に優れ、弓の名手として謳われた。元相模守で桓武平氏の嫡流筋である平直方に武勇と弓の名手として感じ入れられ、直方の娘の婿になり八幡太郎義家が生まれた。直方は大蔵邸と所領地を頼義に譲り渡し、直方の娘とは八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の三人の子息に恵まれた。鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となり、由比若宮は源氏の氏神となった。
―続く