東国武士 三浦一族 二
東国において開発に赴いたものは平高望、藤原秀郷、陸奥安部氏、清原氏、嵯峨源氏、河内源氏である。高望王(たかもちおう)は桓武天皇の孫、または曾孫とされ、宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し平高望を名乗った。昌泰元年(898)高望は上総の介に任官する。長男国香(くにか)、次男良兼、三男良将を伴い上総に赴任する。当時、上級貴族等の国司は自ら赴任する事は少なく、高望は中級貴族かそれ以下であったと考える。任期が過ぎても国香、良兼、良将は京に戻ることなく、在地勢力と関係を深め常陸国、下総国、上総国を開拓し勢力を拡大しその利権を守るため武士団を形成し、高望流桓武平氏の基盤を固めていった。
京に居た高望の四男良文(よしふみ:側室の子)は相模の賊の討伐の勅命を受け東国に下向する。この良文が桓武平氏高望流嫡子国香(くにか)から離れ、桓武平氏良文流として三浦氏の祖となる。やがて桓武平氏高望流嫡子国香と桓武平氏良文流は敵対関係に進んでゆく。高望は後に延喜二年(902)に西海道(九州とその周辺の島々および同所を通る幹線の街道)の国司になり、太宰府に居住し延喜十一年にその地で没している。昌泰の変に太宰府に左遷された菅原道真も延喜三年(903)に同地で没している。
藤原秀郷(ひでさと)の出自等は定かではなく藤原北家魚名流、下野国史生郷の土豪・鳥取氏、古代から在長官人を務めた母方の姓を名乗った等あるが、藤原北家魚名の系図上つながりを見ないことから毛野末流とみる説もある。秀郷は十世紀始め在長官人を務めており天慶の乱で平貞盛・藤原の為憲と連合し平将門を討ち平定した。その功により従四位以下に叙され下野守に任じられ、さらに武蔵守、鎮守府将軍も兼任した。
源氏には祖とする天皇別に二十一の流派があり嵯峨源氏はその最初である。五十二代嵯峨天皇には二十三人の皇子がおり、十七人の皇子が臣籍降下して源氏姓を名乗った。関東に勢力を張ったのは平将門と戦った常陸国の源護(まもる)で嵯峨源氏の武蔵権介の源宛(みなもとあつる:箕田源次充(みつぐ))と同族とされる。『今昔物語』で関東の地において箕田源次充は桓武平氏の村岡五郎良文と手勢を引きながら、一騎打ちの勝負を挑み互いの弓馬の技術を認め和解した話が残されている。
先述した通り、三浦氏は桓武平氏の一庶流であり、村岡五郎良文が相模三浦党、三浦一族の祖とされる。同系の子孫として千葉、上総、土肥、秩父、大庭、梶原、俣野、長尾氏等々の坂東八平氏の共通の祖とされ、所領を拡大させていった。
―続く