東国武士 三浦一族 一
行き付けの割烹で、よく話をする方がおられ、鎌倉の行事や歴史について話す。余り歴史に興味を持たれていない方であるが、たまたまの話で壇ノ浦において源氏か勝利し、平氏が滅亡したと単純に考えられていた。しかし壇ノ浦で滅亡したのは伊勢平氏流の平清盛率いる平家であって、その後の各嫡流、傍流として続いていく。三浦氏、北条氏を例に、少しずつではあるが簡単に説明した。すると興味を持たれ「なるほど」「それで」と質問が来る。そこで、鎌倉散策で東国武士の三浦氏が,、いかに武士として名を馳せ、源頼朝に仕え、幕府に対して最大の貢献が有りながら滅んでしまった経緯を取り上げさて頂く事にした。
桓武平氏高望流系図
桓武天皇‐葛原親王‐高見王―
平高望――国香――貞盛―維将――維時(直方氏、清盛流、北条流)
| | |―維忠
| |―繁盛――維盛(越後平氏)
| |―維幹(吉田氏)
|―良兼――公雅――致頼(長田氏)
|―良将――将門
|―良文――忠頼――忠常―常将(千葉流、上総流)
| | |―将常(畠山流)
| | |―頼尊(土井流)
| |―忠光―忠通――為通―為継―義明――義宗―義盛(和田流)
| | |―義澄―義村(三浦流)
| |―(章名)―景通―影成―景正(長江・大庭・長尾・梶原)
|―良持――良正
「将門記」「桓武平氏系図伝」「諸家系図纂」「尊卑文脈」「三浦系図」等参考
系図的に見ても当たり前のことだが第五十代桓武天皇、五十二代嵯峨天皇、五十六代清和天皇は系図的につながっている。桓武平氏、嵯峨源氏、清和源氏と臣籍降下され、桓武平氏、嵯峨源氏は京を離れ各地域でその地域の豪族と密接に関係しながら、開拓地を増やす。臣籍降下とは天皇に子供が多い場合等、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りる事である。しかし、まだこの時代、律令国家としての国司は入るが、国衙、御厨による租税徴収が主な仕事で、民事的な法の秩序が形成しておらず、その地域の集団ごとに土地抗争や略奪が行われ、各それぞれ武士集団を形成し、利権を守ることになる。東国における三浦氏を考察することで古代から中世における武士集団の変遷を窺う事が出来るので記述させて頂く。
六月の梅雨の一間に晴れた日に車で鎌倉から衣笠、三浦海岸、剱崎、葉山、逗子と三浦半島をほぼ一周した。三浦半島の東側は温暖で、肥欲で広大な農地を見る事が出来る。また優良な漁業地を持ち、他国からの侵略も難しいと考え、この地で三浦氏が拡大していった理由が少しは理解する事が出来た。
--続く