鎌倉散策 曹洞宗寺院と道元鎌倉御行化顕彰碑 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 鎌倉幕府成立前の仏教は南都六宗、天台宗、真言宗で国家庇護の下、仏教研究と国家鎮護を目的とされ、天皇・貴族社会で信仰され、僧も官僧と言う地位を持ち、政治的にも互いに利用してきた。鎌倉時代に入り武士および民衆に対しての浄土思想に基づく仏教が広がり、鎌倉六仏教として新しい仏教が布教した。浄土宗、臨済宗、日蓮宗、浄土真宗、時宗そして曹洞宗である。鎌倉市内には曹洞宗寺院は龍宝寺が文亀三年(1503)に創建され、黙仙寺、大船観音寺、そして昭和になり鎌倉の切通内に松久寺(令和元年十一月五日鎌倉散策で記載)が建立されており、四寺院が存在するが比較的新しい寺院である。

 

 曹洞宗の開祖道元は正治二年(1200)、京都の久我家に生まれ幼名は信子丸で、両親については諸説あるが内大臣・源の通親、母は太政大臣松殿基房の娘とされる。他の諸説を見ても上級貴族又は公家の生まれであったとされる。伝記である『建撕記(けんせいき)』によれば三歳で父通親、八歳で母を失っている。母は道元の行く末に不安を覚え僧になる事を願ったとされる。その後、異母兄の堀川通具の養子になったとされる。建暦三年(1213)比叡山のいる母方の叔父良顕を訪ね、建保二年(1214)天台座主公円について出家し、仏法房道元と名乗る。その後、園城寺(三井寺)で天台教学を治め建仁寺で栄西の弟子明全に師事。

  

貞応二年(1225)明全とともに南宋に渡る。南宋の宝慶一年(1225)、天童如浄の「心身脱落」の語を聞き得悟し、中国曹洞禅の只管打座(しかんたざ)の禅を如浄から受け継ぎ、安貞元年(1227)帰国した。天福元年(1233)、釈迦の教え「正伝の仏法」を伝えるため、京都深草に興聖寺を開き『正法眼象』の最初の巻『現成公案』を執筆した。翌年、孤雲懐奘(こうんえじょう)が入門、続いて達磨衆からの入門が相次いだことより、比叡山から弾圧を受けることになった。

 寛元二年(1244)に鎌倉幕府御家人で六波羅評定衆の波多野義重(相模国波多野荘を本拠)は以前から道元を知り、帰依していた。義重の助力で地頭であった領地の越前の志比荘に招き傘松の土地を寄進し大佛寺を開き、後の寛元五年(1246)永平寺と改め自身の号も希玄と改めた。宝治二から三年(1248-49)五代執権北条時頼、波多野義重の招請により鎌倉に下向する。半年間ほど鎌倉に滞在し、関東における純粋禅興隆の先駆けとなった。しかし、時頼の寺院建立の要請があったが、それを断り越前永平寺に帰っている。

道元は自身に仏が存在し、座禅する姿こそ仏があり、修行の中で仏を見出す事で悟りがあると修証一等只管打座を主張した。その意味は、成仏は完成するものではなく成仏を求め無限の修行を続ける事こそが成仏の本質で、ただひたすら座禅することが最高の修行であると主張した。浄土で仏を見出す事より今現在仏を見出すことに悟りがあると、参禅における「心身脱落」を曹洞禅の極意と表している。

鎌倉仏教は末法思想を肯定していたが、末法思想とは釈迦が説いた正しい教えにより修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけで修行者で悟る人がいない時代を(像法)が来て、その次には正法が全く行われない時代(末法)が来るとする歴史観である。釈迦の時代においても優れた弟子ばかりではなかったことを挙げ、末法は方便に過ぎずと、否定した。

  

 鶴岡八幡宮西の八幡宮裏のバス停近くに道元鎌倉御行化顕彰碑が建てられている。碑には「只管打座(しかんたざ)」と刻まれている。建長五年(1253)、病により永平寺住職を弟子の孤雲懐奘に譲り、俗弟子の覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で入滅する。享年五十四歳。死院は瘍(悪性腫瘍)とされる。鎌倉の建長寺が創建されたのも建長五年である。道元は世俗を嫌い、権力者に媚びず、地位・名声を避け、すべて修証一等只管打座により「正法の仏法」に専念した。また、道元は多くの歌も残しているが、私が好きな歌は下記の二首である。

春は花 夏ほととぎす 秋の月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり

水鳥の ゆくもかえるも あとたえて されども道は 忘れザりけり

 

 また、話は違うが、昭和の小説家で鎌倉在住だった立原正秋が臨終の際、枕元に『正法眼蔵』と『臨済録』が置かれており、道元と同じ五十四歳で亡くなられている。作品の『残り雪』などで『正法眼蔵』が出てくる。彼の作品では古都鎌倉、京都、奈良を背景に日本の伝統的美意識と自身の美意識を綴り、また戦後流行したエロッティシズムを巧みに取り入れ、川端康成や武者小路実篤にはない独自の作風であった。