鎌倉散策 諏訪神社(すわじんじゃ)植木 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 鎌倉市には諏訪神社は御成町と植木、玉縄、城廻の鎮守の二社がある。永正九年(1512)、北条早雲が東相模の三浦氏と戦で小田原城の護りとして玉縄城が築城された。その際に諏訪社を勧請し、守護神として城内の諏訪壇と言う小丘に祀られたのが始まりとされる。

 

 後北条の北条氏綱、綱成、氏勝、の城主の崇敬は集めたが天正十八年(1590)に徳川軍に包囲され龍宝寺住職の説得により四月二十一日に降伏し開城した。元和五年(1619)に玉縄城が廃された後、村人たちは諏訪社を偲び、村人の手により現在の地に移されたと伝わる。

  

 移された当地は龍宝寺北二十メートルほど先の所で、もともと鎌倉源五郎景政を祀る関谷の御霊神社があり、合祀された。鳥居と本殿掲げられた扁額に「諏訪・御霊両大神」と刻まれ残されている。鳥居をくぐり、山の急斜面の石段を登ると舞殿(下拝殿)があり、その向こうに本殿が建立されている。鎌倉らしく小山の上に鎮座された社殿は植木、玉縄、城廻の鎮守として村民の安寧をもたらしている。

 

祭神:建御名方神(たけみなかたのかみ)。例祭:八月二十七日。神徳:勝運、家内安全。

 

 諏訪神社は全国に一万社以上あるとされ、本社は御柱祭(御柱)で有名な長野県の諏訪湖畔にある諏訪大社である。祭神は建御名方神と八坂刀売神の夫婦神である。建御名方神は大国主神(大国主神)の御子神で建御雷神(たけみかづちのかみ)が国譲りを促したところ二人の御子神の意見に従うと答えた。事代主は国譲りを同意したが建御名方神は建御雷神に力自慢を挑み、神威に恐れ付き諏訪まで逃げだしたと言う。また、諏訪に投げ飛ばされたともされ、逃れた諏訪から一歩も出ないことを誓い諏訪に鎮守されたと伝わる。信濃の地に根を下ろした出雲の神の信仰である。本来、負けた神様がこれだけの信仰が得られるのだろうか。『古事記』、『日本書紀』における国譲りの件は出雲と河内(東大阪市生駒)で行われている。

 『古事記』に天岩船に乗り天孫降臨し、河内、大和を支配したでは饒速日命(邇芸速日命:にぎはやひのみこと)が、登尾(奈良県)の地の豪族であった長髄彦(那賀須泥毘古:ナガスネヒ)の妹と娶り大和を治めていたと記載がある。『記紀』による神武東征で神武天皇は、一度は大阪湾で敗れ兄が負傷し、後に亡くしている。二度目は熊野から金色の鳶と八咫烏の先導で畿内に入ったとされ、『古事記』では饒速日が神武天皇に服属したとされ、『日本書記』では長髄彦が戦いを続けたため邇芸速日命に殺され、物部系氏族により編纂された『先代旧事本記』では饒速日の息子、宇摩市志麻遅命が帰順を論じても長髄彦が聞かなかった為に殺したとされる。この生駒周辺には岩船、日下部等の地名が多く残されている。

 『記紀』および『先代旧事本記』に内容は若干違うが、内容は国譲りに関する事である。『先代旧事本記』では「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」と記されている。天照を称する神は伊勢神宮の天照大神と饒速日だけである。また、饒速日は素戔嗚尊の息子、大歳と同一視される説もある。素戔嗚尊を祀る社殿は祇園社、八坂社、八雲社、熊野社等があり、天照大神を祀る社殿よりはるかに多い。

 奈良の三輪山は大神神社の御神体とされ、祭神は大物主とされ三つの鳥居が置かれ中央に大物主左右に大国主と少彦名の鳥居とされる。従って同一神を重ね祭神とすることは考えられず、大物主は誰かとなる。崇神天皇の時代に疫病が流行り、夢中において大物主が血縁者大田田根子により三輪山に祀る事を命じた。それにより疫病はおさまったと言う。『日本書紀』に大和神社(崇神期に大神神社)を大物主の「奇魂」を祀った神社と記載があり、この読み方を「くしたま」と言い、饒速日の諡号が「櫛玉」である。三輪神社の祭神の大物主は饒速日とも考えられている。長野県は「三輪」の地名と三輪信仰、そして「ミワ」姓を名乗る人が多いことから同族ではないかとも考えられ、饒速日、宇摩市志麻遅命、物部氏、奥州安部氏、奥州藤原氏が系図中繋がっている。ひょっとして、この国譲りは同じものであったか、連続的に起こった事実を撹乱・抹消させる意図に基づき編纂されたのではないかと考えてしまう。

 諏訪神社から逸脱して長くなったが『記紀』の編纂は天武天皇による命で行われたと言う事が通説になっていたが、現在は持統天皇崩御後に開始され、天武天皇による命で行われた編纂は『日本書紀』の原資料の一つであったと考えられている。いずれにしても勝者側による編纂であるため矛盾が多く、都合よく編纂されている。しかし、土着化された民衆の信仰まで消去することは出来なかっと思われる。饒速日が世間一般に語られてきたのはニ・三十年ぐらいで前であり、当時は夢中になり社殿を巡ったものだ。饒速日は大阪府東大阪市の石切劒神社の上社に祀られ、河内一宮の牧岡神社の近くにあるが圧倒的に石切神社の方が参拝者は多い。でんぼ(関西弁でおでき)の神様として今も昔も腫瘍の神様として信仰が高い。興味を持たれた方は、「饒速日(にぎはやひ)」で検索をすれば色々と知ることが出来る。