鎌倉散策 佛行寺(ぶつぎょうじ) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 鎌倉市笛田(ふえだ)は鎌倉時代の『吾妻鏡』では笛田と高徳院を含めた付近を「深沢里」と記されており、『新編相模国風土記稿』では深沢荘津村郷に属していた。鎌倉時代から深沢郷は南北に別れ、笛田は南深沢に属しており、地名の由来は不明である。明治二十二年(1948)四月の町村制施行により、笛田、梶原、上町屋、手広、寺分、常盤、山崎の七カ村で深沢村が出来、笛田は字名になった。昭和二十三年(1948)一月、深沢村が鎌倉市と合併し大字となり、南西部の丘陵地が開発に伴い鎌倉山と呼ばれた。その後、住宅開発が進み、笛田の一部が鎌倉山に組み込まれ、平成十二年(2000)住居表示により、現在笛田一~六丁目となった。現在も住宅造成が進む中、鎌倉市でも少なくなった農業が行われる地区である。

 

 佛行寺はその笛田の唯一の寺院であり、地図等では仏行寺と記載されているが正式には笛田山佛行寺である。開山は仏性院日修上人で日蓮宗寺院であり本尊の十界互具曼陀羅は十界を人間の心のすべての境地を十種に分け六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界)に声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の四界を付加したもので、十界の一つ一つが、互いに他の九界を備えていると言うこと。地獄の衆生(しゅうじょう)も仏となりうるし、仏の迷界の衆生となりうる天台宗の説(引用:デジタル大辞泉「十界互具」) を日蓮上人も十界互具を用いて教義を行っている。

宗派:日蓮宗。山号寺号:笛田山佛行寺。創建:明応四年(1495)。開山:仏性院日秀上人。本尊:十界互具曼陀羅。

 

 鎌倉山神社―夫婦が池公園―三嶋神社を歩き佛行寺に着く。銅葺きの薬医門様式の山門の前に庭等の整備費として百円の志納箱が置かれ、志納を行い、門をくぐった。よく整備された寺院であり本堂で手を合わせた。ここを訪れたのは源太塚を見に来たく、本堂左裏から墓地に通ずる道があり、本堂裏の庭園は見事に整備されていた。庚申塔頭の石碑が並ぶ階段を登って行く、急角度で登って行き背後を見渡すと下に境内浦の庭園が見え、池の水を映し、遠く鎌倉山の稜線も五月晴れの中、映していた。墓地に着き、その奥を進み登ると円形に石積みされ、土盛りされた直径六メートル程の源太塚が広がっていた。この源太塚は鎌倉時代の武将、梶原の景時の嫡子景季(かげすえ)の片腕が埋められていると言われる。

 

 梶原景時は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族で、梶原を領地としていた。石橋山の合戦で、平氏方の大庭氏に就いていたが、窮地に立たされた頼朝を救っている。『吾妻鏡』養和元年正月十一日条では土井実平の計らいで、始めて景時が頼朝の御前に参上し、景時には文筆には携わる者でないが弁舌が巧みであり、頼朝は非常にお気に召したとされる。その後、源平合戦で義経の軍奉行として共をするが、頼朝への報告文書は几帳面で戦果等を詳細に記載があったとされるが、景時が義経に対し讒言を頼朝に送っている。景時の嫡子の景季は治承五年(1181)頼朝の寝所警備の十一人に選ばれ、信頼できる家臣がその役に任じられた。木曽義仲追討の戦では宇治川の先陣争いや、数々の武功を立て、景時・景季とも頼朝の篤い信任を得た。しかし、頼朝の死後、景時の讒言により夜須行宗と畠山重忠を死に追いやり、結城朝光が侍所で「忠臣は二君に仕えず」という他の御家人に対し、頼朝時代を偲んだ言葉だった。またも景時が二代将軍頼家に讒言したことから、三浦義村、和田義盛、安達長盛を中心に他御家人合わせ六十六人が景時を弾劾した、頼家は訴状を景時に下したが一言の弁明も出来ず、鎌倉を追放となった。慈円は『愚管抄』で、景時を死なせた事は頼家の失策であると評した(梶原景時の変)。景時の讒言は事実であったが北条時政は頼家寄りの景時を頼家同様に排除する狙いがあったが、この六十六人の中には入っていない。景時・景季は一族を率い京都土御門通親等を頼り上洛中に駿河で在地の武士、吉香友兼らと戦いになり、嫡子景季、景高、景茂ら一族三十三人が最後を遂げた。景時は付近の西奈の山で自害したとされる。これも北条時政の計略と考えられる。その後、頼家病床時に比企の乱が後が起こり、頼家は最大の後見人を失い。北条義時の手配により伊豆にて暗殺された。

 

 以前は梶原景時の評価は讒言者の大悪党の評価であったが、近年、教養もあり、和歌にも長けており百人一首にも選出されている。頼朝に対し忠誠心が強く、官僚的な事務作業に優れていたとされ、『吾妻鏡』では和田義盛に一日だけを約束で侍所別当に変わったが、その後も継続したことが、事務作業が義盛より優れていた事の一例としてあげられる。また、面倒見のある者でもあり、源平合戦の際、平家側に付いた城長茂が因人として景時に預けられた。その後、景時の計らいで奥州合戦に従軍を許され武功を挙げ御家人に列せられた。景時一族が滅ぼされた一年後、景時糾弾の首謀者の一人で、京の大番役を務めていた小山朝政の三条洞院の屋敷を襲い、朝廷に幕府討伐の宣旨を要請したが、拒否された。その後、吉野で討ち取られたが、甥の資家・資正が建仁の乱(越後の乱)を起こしている。これは幕府の在り方と景時の無念を果たすべき行動であったと考えられる。九条兼実の日記『玉葉』では景時が鎌倉からの追放を受けた原因として将軍頼家に実朝を将軍に付ける企てがあると告げたためと描かれている。『吾妻鏡』は後に北条氏が編纂しているため都合よく記載されている面が多く存在する。

 

 景季の死を悲しんだ妻の信夫(しのぶ)はここで自害し果てたとされる。信夫の霊は毎夜景季を偲び鳴き続けたと言う。村人たちはその鳴き声に哀れを感じ、信夫の霊を慰めるために佛行寺を建立したと伝わる。この笛田の佛行寺に来て、また鎌倉の悲しい女性の伝承を知り、再び本堂で手を合わせて帰路に就いた。

佛行寺(ぶつぎょうじ) 鎌倉市笛田3-29-22 ☏0467(32)2032 拝観は日没まで 拝観料は庭等の整備費として百円の志納となっている。