二十四節気で小満とは少しずつ、植物、鳥、虫、生命が次第に満ち満ちて行く頃の事を言う。この春の今頃、人は恋の季節に入る。五月二十三日は恋文の日、ラブレターの日である。昔は、春に知り合った二人が、ちょうどこの時期にラブレターを出し、恋は盲目の時期に入る。携帯電話が無かったあの時期は、やはり時間がゆっくり廻っていたのだろう。そして、それが優しい時間だったように思う。
初候は蚕起きて桑を食う(かいこおきてくわをくう)は五月二十一日から五月二十五日で、蚕がこの時期に桑の葉を食べ始め、育つ頃を言う。蚕は家蚕(かさん)と言い、家畜化された昆虫で野生にはもう生息しない。野生回帰能力を失い人間の管理下でないと生きていくことが出来ない蛾の一種である。蚕は人が与える桑の葉を食べる事で、美しい絹糸を作る繭を紡ぎサナギへと準備し、あまり成虫を観ないが、天子の様な、また小悪魔の様な不思議な形姿を持つ。養蚕は数千年前から中国で始まり、日本に紀元前二百年ごろに伝わったとされる。餌となる桑の生育に適していたことが大きな要因であるが、江戸時代後期まで需要を満たすまでは至らず、品質においても中国産の物に対し劣っていた為、輸入されていた。江戸時代後期から幕府の養蚕の推奨が行われ、品質と量的な改善が見られた。その後、明治政府も養蚕事業を継続し、日本の近代化を促進した大いなる要因の産業であった。
次候は紅花栄う(べにばなさかう)は五月二十六日から五月三十日で紅花が一面に咲く頃を言う。紅花は古くは和名で「呉藍」と呼ばれ、中国の呉から五世紀ごろに日本に渡来したと言われる。東海・関東地方でも平安期には栽培され、室町期以降江戸時代までは紅花栽培に適した最上川流域で大産地として栽培がなされた。藍、茜、紫紺と共に染色植物として京染に使われた。その後、口紅として用いられ、高価な紅餅が都(京)に運ばれ、同じ重さの紅餅は、一時期は金の十倍したとされる。
紅花の早朝摘みは、紅花の花に付いたトゲがあり、摘み取る際にそのトゲで手を痛めてしまう。朝に摘む事により朝露でトゲが日中より柔らかいため朝摘みが行われた。しかし摘み取る村の娘たちは血で手を染め、紅はより一層赤くなったと伝えられる。花は餅の様につき紅餅として搗き上げられ乾燥させ紅餅として出荷された。今では紅花は植物油、漢方薬として栽培されている。
この時期、抜けるような青空が開いた晴天の日を五月晴れというが新旧暦の違いでと京文化中心で、南北に長い日本では意味合いも変わり、昔は梅雨の事を五月雨(さみだれ)と言われた。
末候は麦秋至る(ばくしゅういたる)で五月三十日から六月四日である。昔、実りの季節を麦秋と呼ばれ、麦はこの頃熟して収穫する。この季節平安時代では更衣という習わしがあり、旧暦では四月と五月に行われていた。今は六月と十一月に行われるが、温暖化により夏の衣替えは五月ゴールデンウィーク明けに各自の判断で衣替えされている。
旬の魚介類はきす、車海老、べら。旬の野菜はそら豆、シソ。旬の果物はびわである。キスは天ぷらが美味しいが、昔長崎で食べた尺物のシロギスの刺身は歯ごたえがあり、甘く絶品だった。車海老は踊り食い。ベラは煮つけ。そら豆は茹でるか、焼くかビールのおつまみに最高であり、これを食べないと枝豆の季節が来ない。桃栗三年、柿八年、びわは早くて十三年と言われるが、関西では桃栗三年、柿八年、びわは九年で実がつかずと言う。