小動岬に立つ小動神社は国道から鳥居をくぐり緩やかな坂道を登って行く。小動神社は文治年間(1185~1190)、佐々木盛綱(近江宇多源氏の子孫、平治の乱で関東に落ち頼朝に仕える)が江の島詣での際、この岬一帯を「小動の松」があったと言われ、風もないのに揺れる美しい松に魅了されたと言う。父祖の領地近江国の八王子宮を勧請したのが始まりとされる。盛綱は風のないのに葉を揺らし、琴の様に奏でる音に魅了して「天女遊戯の霊木」と称えたと言う。
小動神社(八王子社)は明治元年(1868)の神仏分離令が発せられる前は浄泉寺と一緒にあった。元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの途中、戦勝祈願の為に八王子社に剣一振りと黄金を添え奉納され、社殿を再興している。大正七年まで浄泉寺住職が小動神社を管理されており、剣も保管されていた。非常に珍しい例である。
祭神:建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、建御名方神(たけみなかたのかみ)、日本武尊(やまとたける)、歳徳神(としとくじん:相殿)。例祭:一月十六日。境内社:海神社(わたつみ)、稲荷社、琴平社、第六天社。神事芸能:湯花神楽(例祭)、天王祭神輿渡御(七月十四日)。宝物:神輿、刀(銘則光)、青磁唐獅子等。神徳:悪災除、国土開発、五穀豊穣。八王子宮は須佐之男命の御子神五男、三女神を祀る宮を言う。社号は八王子宮、八王子大権現、三身社と称された。江戸時代の小田原城主大久保忠真は牛頭天王(須佐之男命)、歳徳神、日本武尊の三神を祀る事から「三神社」の扁額を揮毫(きごう:筆を振るい字や絵を書くこと)している。
明治元年(1873)に神仏分離令が発せられ、小動神社として改名され、腰越の鎮守社とし、村社に列格された。江戸期に建立された本殿は関東大震災で倒壊したが。昭和四年(1929)に復興された。七月に行われる天王祭は江の島八坂神社との出会い祭も行われ五カ町の氏子による囃子太鼓が出て賑わう。神輿は海岸から五カ町一帯を巡り、龍口寺前で江ノ島八坂神社の神輿を迎え、その後、小動神社前で両者の神輿が据えられ、互いの宮司が相手方神輿に玉串を奉納し拝礼する。かつては各町から飾り人形の付いた山車が出され、その際に腰越の路面を走る江ノ電の架線が取り外された。
境内の狛犬の台座に「漁船」「土橋」と刻まれている。これは腰越漁業組合がある土橋地区から奉納されたもので、赤い頬かむりは大正時代前から狛犬さんも寒かろうと言う事で、地元の漁師が巻かれ、年末に取り替えられる。また、お腹や足に巻かれる事もあり、これは地元の方々が病気、怪我の平癒を願う為に行われるそうである。
この腰越、七里ヶ浜は作家の太宰治が若い時期に女給と心中事件を起こした。自身だけが助かり、七里ヶ浜周辺の病院で療養している。後に、それを基に書かれた『道化の華』の舞台である。境内の海側に展望所があり腰越漁港と相模湾に浮かぶ江の島が美しく見える。冬場の空気が澄み切った時背後に富士山の姿が美しく、特に茜色に染まった空と江ノ島、富士山が写る風景は身近に見る事が出来る絶景である。
小動神社(こゆるぎじんじゃ) 鎌倉市腰越2-9-12 ☏0467(31)4566