鎌倉散策 霊光寺(れいこうじ) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 江ノ電七里ヶ浜駅を北に登って行くと行合川を渡る雨乞橋が左に見えてくる。橋を渡り、またしばらく行くと日蓮上人雨乞い跡の石碑が建てられおり、舗装されていない道を三十メートルくらい進むと寺院らしき門が見える。七里ヶ浜の駅から歩いてニ十分近くかかり、上り坂なので結構つらかった。

 霊光寺は創建が昭和三十二年(1957)であり、新しい寺院であるが、由緒として歴史は古く、文永八年(1271)に鎌倉が大干魃に襲われ、六月に八代執権北条時宗は雨乞い名人とされた極楽寺の真言律宗の忍性に祈祷を命じた。日蓮は忍性に書状を送り「七日の間に雨が降ればお前の弟子になる。ただし降らなければ法華経の信者になれ」と挑んだとされる。当初は百名ほどの僧が祈祷し、雨が降らず僧を倍にして二週間の祈りを続けたが雨が降ることは無かった。日蓮は変わり田辺が池のふちに立ち法華経を祈り始めるとともに落雷と大雨が降り始め、法華経の力で雨の神である八代龍王(難陀、跋難陀、娑迦羅など)の助けを得て三日三晩降り続いた。雨の降り続いた後、田辺の池が出来たとされ、それ以来雨乞いの池と呼ばれた。

 

 日蓮は他宗に対し邪教として「念仏を信じると無間地獄に陥るぞ」「真言は亡国の原因である」「禅は天魔の行為」「律は国の賊である」と批判し、数度の法難に会った。幕府は危険集団と考え、佐渡流刑となっている。日蓮の忍性批判は『忍性』松尾剛次著において、日蓮は佐渡流刑中に自分の弟子の小輔房、能登房、名越の尼などが多くの信者を引き連れ忍性のもとに改宗している。特に名越の尼は北条家の庶流名越一族に関係する者で有ったらしく経済的にも支援者であった。「上野殿御返事」という日蓮遺文の一つで名越の尼を罵っており、要は信者をめぐる争いが激化した挑発行為であったと考えられる。

 

 明治の末に雨乞い池周辺の調査が行われ、享保二十年(1735)に江戸講中が建てたとされる「日蓮大菩薩祈雨之旧跡地」と銘がある石塔が出土され、日蓮上人像と本堂を建立したのが寺の始まりである。

 この日、霊光寺の山門は閉じられ横から広い寺院の敷地に入り、奥の山に登って行くと鬱蒼とした木々が立ちこみ、「日蓮上人雨乞いの像」が建てられており、その先を登ると本堂であった。本堂正面の軒には「祈雨霊蹟」の額が掛けられており、日露戦争で活躍した上村彦之丞海軍大将の筆によるもので、寺の再建に尽力された。

 

宗派:日蓮宗。山号寺号:龍王山霊光寺。創建:昭和三十二年(1957)。本尊:日蓮上人。

 「祈雨霊蹟」の扁額を記した上村彦之丞は非常に興味を持つ経歴であるため少し説明したい。嘉永二年(1849)薩摩藩の漢学師範の長男として五月一日生まれた。幕末の新政府軍として鳥羽伏見の戦いから、戊辰戦争(会津戦争)に参戦し、後に海軍兵学寮に進む。西郷隆盛が下野した際、それを追い薩摩に戻るが、隆盛の説論により兵学寮に戻る。同期として山本権平(嘉永五年(1852)11月二十六日生誕:海軍兵学寮二期卒業、席次十七人中十六席)や日高壮之丞とがおり、共にしている。兵学寮二期から四期で行われた試験で最下位となり少尉候補生試験で再教育を受け、四期で卒業しているが、ここでも席次は最下位であった。しかし、その後に海軍教育部長、軍務局長などを務め軍政面で能力を発揮した。また常備艦隊司令官として兵学三十期の遠洋航海を行い、日本海軍としては司令官を置いて行う練習艦隊の始まりであった。日清戦争においては防御巡洋艦秋津洲の艦長として豊島沖海戦で敵の砲艦操江を降伏させ、これも日本海軍が敵艦を降伏させた初めての事例である。 

 

 日露戦争では東郷平八郎(弘化四年(1848)12月22日生誕)の下で、第二艦隊司令官として蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊を撃破。撃滅寸前で砲弾ナシとの伝言板を受け取り、それを床に叩き付け足で踏みつけた形相は他の部下たちを震撼させたと言う。また、最後まで砲弾を打ち続けた敵艦リュークに対し敬意をはらい、敵生存者六百二十七名を救助している。その様子が海軍軍歌となり長く歌われていた。日本海海戦ではバルチック艦隊の進路を防ぎ、戦勝の重要な基因をなし、明治四十年(1907)男爵を受爵。横須賀鎮守府長官、第一艦隊司令長官を務め海軍大将で退役となった。東郷平八郎は「彦之丞ほど感情の激しい男は居らん」と称し、海軍内部では浮いた存在であった。短気で喧嘩早く、酒豪であったが情に厚く、部下思いであったと言う。司馬遼太郎『坂の上の雲』にも描かれており、日本海海戦前の連合艦隊首脳部の六人が並んだ写真には小柄な東郷平八郎と中央に並び長身の豪傑ぶりが撮られている。その中に『坂の上の』の主人公の秋山真之が右端に冷静な姿で見る事が出来る。

 少々学力において席次が優先しても、実際の世の中では本質を知り、適応力に長けているものが功をなす。山本権平においても常に、実戦においては違うと言う持論を持ち日露戦争においては、連合艦隊司令長官だった同期の日高壮之丞を外し東郷平八郎を抜擢している。鎌倉は横須賀に近いため海軍軍人のゆかりの物が多数ある。東郷平八郎は大船の成福寺に忠魂碑、長谷の収玄寺に「四条金吾亭跡」の石碑を揮毫している。

 

霊光寺(れいこうじ) 鎌倉市七里ヶ浜1-14-5 ☏0467(31)6547