鎌倉散策 浄泉寺(じょうせんじ) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

山門と、関東大震災の供養塔

 山門は国道百三十四号が出来た昭和三十年(1955)に国道に沿いの小動神社と向き合った形で建て変えられた。以前は江ノ電の電車道に沿って山門が建てられていた。現在でも電車道から家屋の路地を通り境内に入ることが出来る。旧参道の入り口には「弘法大師廿一ヶ所第十六番札所」が刻まれた石碑が建っている。

 

 創建の年次は不明だが(弘仁十年(819)弘法大師開山とも言われる)、開山は弘法大師で、もとは青蓮寺末寺であったが、現在は古義真言宗大覚寺派の末寺である。中興開山は室町時代の僧、元秀である。朱塗りの山門の向こうに本堂があり、境内には地蔵堂、関東大震災の供養塔が建てられている。

 

宗派:古義真言宗大覚寺派。山号寺号:小動山松岩院浄泉寺。開山:空海、(中興開山・元秀)。本尊不動明王。非公開であるが本尊不動明王は身体の正面で腕を交差し、左手で剣を持つことから「左剣不動明王」と呼ばれている。

 浄泉寺は明治元年(1868)の神仏分離令が発せられる前は小動神社(八王子社)と一緒に祀られており、元弘三年(1333)の新田義貞が鎌倉攻めの途中、戦勝祈願の為に、この八王子社に奉納した剣が保管されていた。また大正七年まで浄泉寺住職が小動神社を管理されており、非常に珍しい例である。

 

 『鎌倉子ども風土記』では国道百三十四号が昭和三十年(1955)に造られた際の工事で、浄泉寺の墓地と小動神社境内から開元通宝、治平通宝、政和通宝、明・宋銭が千数百枚出土したと言う。また江戸時代に寺子屋が開かれ、浄泉寺が一番盛んであった。後の明治五年(1872)に学制がしかれ、散在していた寺子屋が集約され「発蒙学舎」となり、これが腰越小学校の始まりとされる。

浄泉寺(じょうせんじ) 鎌倉市腰越2-10-7 TEL0467(31)5577 拝観時間特に無し 拝観無料