鎌倉散策 満福寺(まんぷくじ) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 この腰越・片瀬は龍口寺輪番八ヵ寺があるので日蓮宗寺院が多くを占める。他に満福寺,浄泉寺と宝善寺が真言宗大覚寺派の寺院として古い歴史を持ち存在する。

 

 満福寺は源義経の「腰越状」で有名であり、源義経は文治元年(1185)二月に屋島、文治元年三月に壇ノ浦の戦で平家を滅亡させた。鎌倉の兄の源頼朝に梶原景時の義経の行動についての讒言が届いた。義経の軍事的戦術家としての評価は朝廷および京中の人々に対しても非常に高かったが、頼朝は自身の推挙なしに官位を受けた事など義経への疑心が深まり、東国武士に対し、義経に従わないよう内々に指示した。義経の行動は頼朝にとって武士の棟梁としての立場を根底から崩される危険性を含んでいた。文治元年四月二十六日、生け捕りにした平宗盛の入京後、五月七日、義経が宗盛親子を連れ鎌倉に向かった。五月十五日、義経が小田原の酒匂に着き、明日鎌倉に入る事に使者を出すが、頼朝は「義経は鎌倉に入ることを禁ず」と命令が出された。義経は、この腰越の万福寺にとどまり、和田義盛、中原広元に頼朝への取り成しと、わび状(後に有名な「腰越状」)を添えて依頼するが、頼朝は答えを出さなかった。六月九日、義経は鎌倉に来て兄頼朝に遭えば自身の嫌疑は納得してもらえると思っていたが、頼朝の拝謁もなく宗盛、重衡を連れ京都に向かう。この対応に不満を持ち頼朝に対し反旗を抱く結果になり、京に戻り後白河院の頼朝追討の宣旨を受け、西国を目指すが暴風雨に見まわられ失敗する。その後、頼朝の追跡を受けながら奥州藤原秀衡を頼った。文治五年閏四月(1189)秀衡死後、秀衡の嫡子泰衡は頼朝の圧力から義経を襲撃し、誅殺する『愚管抄』では陸奥国の人々は「殺さなくともよかったのに、悪い事をした者だ」と語り合ったという(引用:『愚管抄』訳、大隅)。泰衡は鎌倉に義経の首を届け、この万福寺において和田義盛、梶原景時が検分のため遣わされた。当時、武士が討ち取った首を献上する場合、本人が持参するのが礼儀で泰衡は家臣に行わせ、その家臣も従者に持たしたと言う。『吾妻鏡』では、「その様子を見る者は涙を拭い両袖を濡らしたという。」境内には「義経公慰霊碑」が建てられている。

 

宗派:真言宗大覚寺派。山号寺号:龍護山医王院満福寺。創建:天平十六年(744)。開山:行基。(中興・高範)。本尊薬師三尊。寺宝:本尊木造薬師如来像は薬壺を持たない、施薬、医術の仏である。木造地蔵菩薩像は平安遷都時期のおよそ千二百年前に造られたとされる。木造宇賀神像は穀物豊作の神であるが万福寺では仏教の神として信仰されている。また、弁慶が書いた「腰越状」の下書き、弁慶の物とされる椀・錫杖、「義経と静」の別れの場を鎌倉彫の手法を取り入れて描かれた襖絵三十二面がある。本堂内の位牌堂の格天井(ごうてんじょう)には四十八種、七色の鎌倉彫の花々が咲いている。四十センチ四方の板絵には梅、牡丹、蓮、竹、鳳凰が描かれている。

 

 満福寺山門の手前に江ノ電が走り、長谷の御霊神社とよく似た風景である。満福寺は行基(668~749)が開いた寺とされ、寺伝によると桓武天皇が東国で疫病が蔓延した際、行基に疫病を治めるよう命じた。鎌倉に来た行基はこの美しい風景に魅せられ、ここで仏像を彫り、祈願すると疫病が治まったとされる。行基はこの地に病気平癒の祈願寺を建立したのが万福寺の起源とされる。また、本堂裏の山裾から湧く清水で弁慶が「腰越状」を書く際筆に水を含んだとされる硯の池や弁慶腰掛石義経手洗いの井戸もある。逸話として弁慶が「腰越状」を書く際、境内にコオロギが頻りに鳴いていた。頼朝の疑心が解けるよう願いながら墨をすっていた弁慶は鳴くコオロギに対し「やめよ」と叫ぶと、コオロギの鳴き止み、それ以降万福寺の境内ではコオロギは泣かないとされる。

 

満福寺(まんぷくじ) 鎌倉市腰越2-4-8 ☏0467(31)3612 拝観時間9時~17時 拝観料志納