承久の乱の後、御家人の恩賞も行われ、政子・義時の幕政は続き、貞応元年(1222)三月三日、義時の弟、時房が伊勢国守護職と国内の十六ヶ所の所領も賜った。しかし、元仁元年(1124)六月、北条義時『吾妻鏡』では義時が体調を崩していた。特別なことは無かったが、同十二日、病気に伏して、時を追って危篤となった。同十三日、臨終に近づき義時は外縛印(げばくいん:密教で両手を交差してこぶしを作り、各指を外側に出す院契)を結び念仏を十数回唱え往生した。脚気により享年六十二歳で、義時にしては自身早すぎる死であった。同十八日、安倍知輔朝臣が葬送を取り計らい、北条朝時、同時重、同政村、同実義、同有時、三浦安村と義時の宿老の祇候人少々が喪服を着て供養された。頼朝の法華堂の東の山上を墳墓としたとされる。同二十六日北条泰時、時房そして足利義氏が京都から鎌倉に到着し由比の浜辺りに泊まり、翌二十七日、小町北西の邸宅に入った。この間、泰時が京都から鎌倉に戻り兄弟を討ち取ると言う流言が流れた。同二十八日、政子に会い、「時房、泰時は三寅の後見として武家の事を執り行うように。」と言われた。政子は覚阿(大江広元)に三寅の後見と時期執権について話すと「今日までその裁定が伸びた事さえ遅く世の安否を人が疑う時、決定すべきことは早く決定すべきです。」と言った。同二十九日、時房、泰時が相談し、世上の噂により鎌倉に残り、京都守護をさせるため時房の長男、時盛と泰時の長男時氏を上洛させた。伊賀朝光の妹で義時の後妻の婿、一条実雅を関東の将軍に立て子息の北条政村を後見にし、執権を光宗兄弟が就くと言う企てが噂されていた。賛同する御家人もいたと言う。
七月十七日、同日、政子は三浦義村邸を訪れ、北条正村と伊賀光宗らが、頻りに義村邸に出入りし、密談している噂を問いただした。「承久の乱において天命ではあるが、半ば泰時の功績で、義時は数度の乱を収めて戦いを鎮めてきた、その跡を継ぎ、関東の棟梁となるのは泰時である」と、また「政村と義村は親子のような者であり、何故政村に諫言(かんげん)しないのか」と強く言われたと言う。
七月十八日、三浦義村は北条泰時と会い、自身の釈明と、願う事は世の中の平安とを訴え、伊賀光宗は計略があったようであるが、自身が諌言した所、帰伏したと、告げた。泰時は喜びもせず、驚きもせず「政村に対し全く外信を抱いていない。何事によって敵対することがあろうか。」と返答したと言う。義時の三十五日、四十九日が過ぎた同三十日の夜、御下人達は旗を揚げ甲冑を着て競うような騒ぎがあったが夜明けとともに静まった。 閏七月一日、北条正子は三寅を連れ、昨夜から北条泰時邸に叔父義房と共に過ごし、世上の乱れを鎮めるように三浦義村に使者を遣わしていた。翌朝、義村を呼び寄せ、命じられた。「私は今、若君を抱いて時房、泰時と同じところにいる。義村も同じくこの場所に祇候するように」。義村は辞退することもできず、壱岐入道(葛西清重)、出羽守(中条家長)、小山判官(朝政)結城左衛門尉(朝光)以下の宿老を呼び。政子は時房を通じて命じた。「三寅は幼少で臣下の反逆を抑えがたい。私は老いた命を生かしており、たいそう役には立たないが皆はどうして亡き将軍のことを思わないのか。思い起こせば命令に従い同心すれば何者が奮起するのか」。同三日、覚阿(大江広元)が老病を押し、招きに応じ「伊賀光宗の奸謀は露顕した。公卿以上は、むやみに罪科を処し難く、身柄は京都に進めて罪名を奏聞して伺う。後室(伊賀氏)と光宗は流刑とし、その他の者はたとえ一味の疑いがあっても罪科は行わない。」と関実忠が記録を記したとされる。同二十三日、一条実雅卿は上洛した。二十九日、伊賀式部丞光宗は政所出自を改められ、所領五十二ヶ所を没収され、隠岐入道行西(二階堂行村)が身柄を預かり守護した。後、信濃国に配流、後室(伊賀氏)は伊豆国北条郡に下向、籠居した。政子の命を受け泰時が下知されたと言う。
義時の急死と共に家督を継ぎ、不安定な幕府でもあったが、政子、大江広元そして義時の弟時房により三代執権泰時が、八月二十八日政所吉書始めが行われた。泰時はここでも父義時の遺領はほとんど弟らに与えたと言われる。諸説では不安定な幕府運営に対し、支持を得ようとした為。また宗光の罪科も反発する御家人に対しての憂慮とされるが、泰時の執権の時代、と子息四代執権経時の時代には戦乱は起こっていない。『吾妻鏡』では泰時の人間性について詳細に記載されている。また、和田合戦の際も恩賞の所領については辞退している。泰時の政治は質素であり、謙虚で他の御家人や民衆に対し、信頼され賢明な政治であった。
嘉祿元年(1225)六月十日、大江広元死去、享年七十八歳。七月十一日、政子死去享年六十九歳で、この二人は鎌倉幕府の頼朝の夢を実現させるために奔走した二人であった。
二人の死は不安定な幕政と思われたが、泰時はこの体制の中で、自身の求める政治を行えたことも考えられる。嫡流家に「家令」を置き、都の一族とは違う立場を明確にし、その後、得宗・内官令の前身となった。集団指導体制、合議政治を行い叔父の時房を京都守護から鎌倉に迎え両執権と呼ばれる複数執権体制をとり、後に連署と呼ばれた。また有力御家人代表の三浦義村と中原師員らの幕府寺務官僚で構成された十一人の評定衆と執権、連署を合わせた十三人の評定を新設し文民統制(シビリアンコントロール)に近い、立法・司法・行政を行う幕府の最高機関を作っている。また武士の法典でもあり、裁判の基準「御成敗式目」を作った。また、和歌江島港湾事業の完成、道路交通の整備(金沢街道)等多くの事業を遂行させた。
『鎌倉殿と十三人』の時代背景を綴って来たが、鎌倉殿とは将軍頼朝に付けられた名称であり、その後将軍職を継承した頼家、実朝が用いられるべき名称であった。後に室町期に入ると鎌倉公方として関東の武士を管理・監視する名称に変わる。『鎌倉殿と十三人』の時代、十三人での合議はほとんど行われなかぅた。また、比企の乱後には消滅している。しかし、その後に、この十三人がそれぞれの役割を担い、鎌倉幕府の基礎を作り上げた。その中でも大江広元の貢献は頼朝、頼家、実朝に仕え義時、泰時を補佐し多大な功績を示した。頼朝は一人で鎌倉幕府を作り上げたのではなく、自身の後継者も作ることなく、完成半ばで死去した。しかし、頼朝の夢は時代が求め、頼朝の夢を追随する人物により武士の政権が成し遂げられた。―完