承久元年(1219)
正月二十七日、公暁が起こした実朝暗殺は『吾妻鏡』『愚管抄』『承久記』で鎌倉幕府三代将軍の暗殺の記述が違う面が多い。また、この事件の全容は公暁の単独による父頼朝の仇と自身の将軍職の就任を狙ったとされている。しかし、多くの説が述べられている。
・北条義時が公暁を使い暗殺を仕向けた。威の神のお告げの夢による行動と御剣役を当日仲章朝臣に変わってもらったこと。しかし、暗殺後公暁が頼ったのは三浦義村である。
・義時が公暁を用い実朝と三浦氏を滅ぼすために仕組まれた。暗殺後公暁が頼ったのは三浦義村であり、公暁の乳母夫出合った為、事の成り行きにより三浦一族も討つ事が出来た。実朝が病気がちであり、子息がいない為、もしもの時を考え親王の鎌倉入りを画策していた様子が見られ、北条正子は熊野詣で京に伺い後鳥羽上皇の乳母の卿局(藤原兼子)と対面している。『愚管抄』では実朝の後継に後鳥羽上皇の皇子を将軍に求めたが卿局は自身が養育した頼仁親王を推して、二人の間で約束がなされていたと記述されている。
・北条義時、三浦義村、御家人が共謀し公暁を使い、実朝を暗殺した。次第に実朝の将軍親裁が強まってきた時期であった為。
・三浦義村が公暁の乳母夫であり、公暁に義村を信頼させ、父頼家の仇として実朝を討つように仕掛け、実朝、義時の両人を暗殺することを企てた。しかし、和田合戦の時も和田義盛を裏切り、それだけの企てを立てられる男ではないと考える。今回もすぐに義時に事情説明のため窺っている。
私自身は通説の公暁の単独による父頼家の仇と自身の将軍職の就任を狙ったと考えるが、義時がこの暗殺の計画を知っていたのではと考える。実朝の後継者にも、ある程度の目途が立ち、自身が何もせず権力が掌握できれば、また事の成り行きで、三浦一族を討つこともできると考えたのではないかと考える。しかし、北条義時において誤算が生じたのは承久の乱である。鎌倉幕府前期において危機的状況の中、決断を迫られた大博打であったと考える。中期は八代将軍時宗の蒙古襲来であり、後期は後醍醐天皇の倒幕であった。
この時期の朝廷と幕府の概要について述べさせていただくと、東国武士を中心として樹立した鎌倉幕府の成立後、東国において守護、地頭を置き、権力を掌握していった。しかし、西国においては、まだ朝廷の権力が強く平家に加担した貴族、武士の所領に関し地頭を置く事が出来たが、幕府と朝廷の二元政治が続いていた。頼朝が幕府を樹立させた目的とし、天皇による政治を立てながら武士を束ね、軍事・警察権の掌握と武士の所領において統治権を認めさせることであったと考え、武士は将軍(棟梁)の臣下と位置付けていた。東国の荘園などに幕府地頭が置かれたが年貢の未納などが発生し、荘園領主の後鳥羽上皇や貴族が紛争を起こすようになっていた。幕府は三代将軍源実朝が公暁により暗殺され、二代執権となった北条義時を姉の政子が新将軍を補佐する体系に至った。鎌倉では、公暁に関与した僧や御家人の捜索が行われ、京都の治安維持に御家人を上洛させた。
二月十三日、幕府、二階堂行光を京に上洛し、六条宮(雅成親王)と冷泉宮(頼仁親王)のどちらかを将軍として下向されるよう禅定二位家(政子)の奏上を伝えた。しかし、院からは閏二月四日、「親王のどちらかを下向させよう。ただし今すぐにはいかない。」と命じられた。三月九日、(藤原)、忠綱朝臣が上皇の使者として鎌倉に下向した。院の愛妾亀菊の所領である摂津の長江(大阪府豊中市豊南町付近)・倉橋(猪名川に対岸する兵庫県尼崎付近)の地頭職の撤廃と御家人である西面武士で御家人の仁科盛遠の処分の取り消しを条件とした。義時はこの対応により幕府の根幹を揺るがす事と拒絶を決め同十五日、二位家(政子)の使者として北条時房が一千騎を伴い上洛し、将軍下向を求めた。武力的背景により朝廷と幕府において、新しく後継の新将軍において調整に難航するが、義時は皇族の将軍をあきらめて摂関家の九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を迎え、自ら後見とし、執権が中心とした政務を執る執権体制を整えた。朝廷と幕府間では、しこりが残る選択であった。
七月十九日、三寅二歳、(後、経頼)鎌倉に下向した。政所始めが行われ、三寅は幼いため二品禅尼(政子)が理非を裁断した。同二十五日、内裏守護の源頼重(源頼政の孫)が後鳥羽院に背いた事で、西面武士に攻められ仁寿殿に籠り自害したと言う。この時、宜陽殿・校書殿等の内裏の多くの施設が焼失している。『吾妻鏡』には後鳥羽院に背いた内容は記載されていない。諸説では頼重が将軍に付くことを図った為。しかし是は幕府内の問題のため、西面武士を動かすことに疑問がある。また後鳥羽院が鎌倉調伏のため加持祈祷を行っていた事を頼重が知った為、院に殺されたともいわれ、祈祷が行われたと言う最勝四天院が取り壊されている。次第に朝廷と幕府間は緊張を高めた。
承久三年(1221)五月十四日、武勇に優れた後鳥羽上皇は幕府の体制が弱くなったと判断し、「流鏑馬ぞろい」と称し千七百騎ほどの兵を集め京都守護職の伊賀光季を攻め、光季は、わずかの手勢で応戦した光季はここで討ち死にするが、下人を鎌倉に事の次第を伝えさせ、わずか五日で鎌倉は事態を知ることになる。五月十五日、後鳥羽院は北条義時追討の宣旨が出された。後鳥羽上皇は三浦義村の弟胤義(三浦義村を日本国惣追捕使(にほんそうついほし)に胤義に約束)や、大江広元の子の大江親広、有力御家人の小野盛綱、佐々木広剛を味方に付けた為、官宣旨を出すことにより兵力が増強できると楽観的なものだった。伊賀光季の早急な知らせで事態を知った幕府と御家人は官宣旨が出され、大いに動揺したが、北条正子が御家人たちに対し鎌倉幕府創設以来の頼朝恩顧を訴え、「讒言(さんげん)に基づいた理不尽な義時追討の綸旨を出してこの鎌倉を滅ぼそうとして、実朝の偉業を引き継いでゆくよう」命じたことで動揺は収まった。直接御家人の前で行われたか、安達景盛が政子の書状を読み上げたとの『吾妻鏡』『愚管抄』では違っている。幕府軍は五月二十二日東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向け派兵した。東海道に向かった北条泰時は僅か十八騎で立ったと言う。これは博打的な要素を持った決断で、必勝を期すための判断ではなかったと考える。しかし、的確な情報と迅速な対応の決断によって自治権を持った東国の武士が再び律令国家としての武士に戻ることを躊躇し幕府に味方したと考え『吾妻鏡』には宇治、瀬田の合戦には十九万騎の軍勢に膨れ上がったと記載される。朝廷軍は藤原秀康が総大将で一万七千五百騎余りであったと言われ宣旨により兵力の増強は遅れたか、また宣旨に対する増兵の影響力が無かったかと考えられる。六月十三日、宇治川で朝廷軍と幕府軍が衝突するが、幕府軍は知らせを受け僅か二十二日で鎌倉から京都に布陣した。朝廷側は甘い判断により兵力が集まらず、即効的な決断を下した幕府軍は見事に朝廷軍を破った。十四日に幕府軍は京都になだれ込み、幕府軍は寺社、公家武士の屋敷に火をつけ、京の民にも甚大な被害を与え略奪暴行も多くあったとされる。
『承久記」によれば、後鳥羽院は御所の門を閉ざし、最後の一戦に駆けつけた朝廷側の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠を門に入れなかった。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と憤慨したと言う。上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てとし、義時追討の院宣を取り消し藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らの捕縛を命ずる院宣を下した。藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は東寺に立てこもり抵抗をしたが、三浦義村が攻め三浦胤義は自害、山田重忠は嵯峨野般若寺で自害、藤原秀康は河内国で捕縛され、承久の乱は終息した。後鳥羽天皇は隠岐へ、順徳天皇は佐渡へ、配流され、その地で崩御される。討幕反対派の土御門天皇は自ら土佐へ、後に阿波におもむかれた。この乱は朝敵として院宣を受けながら朝廷に勝利した初めての乱であり、後に足利尊氏にも繋がる事件であった。
結果的に朝廷側に立った公家・武士の荘園所領を没収し、勲功のあった幕府御家人に配分され、御家人はより結束を固めた。また幕府は京都守護から六波羅探題を設置し、朝廷及び西国武士の管理を強化した。朝廷の後継問題にも関与するようになり、朝廷側は詳細な問題においても幕府に伺いを建てなければならなくなり、幕府は朝廷との二元政治を一元化する事が出来た。義時を中心に鎌倉幕府の本格的な執権制度が始まった。―続く