鎌倉散策 『鎌倉殿と十三人』十八、実朝暗殺 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 北条義時らは建保元年五月二日から三日にかけて頼朝挙兵以来の重臣であった和田義盛と鎌倉内で激戦の上、一党を討ち取った。和田氏は従来、桓武平氏の流れをくむ三浦の庶流で、三浦義明の嫡男杉本義宗が長狭常伴との合戦で矢傷を負い杉本城で亡くなり、義宗の弟、義澄が三浦を継ぐ。義宗の嫡男の義盛は三浦郡の和田郷に拠点を構え杉本城は義盛の弟、義茂が入城し、義盛は和田姓を名乗った。和田と三浦が結べば、強大な軍事力になっていたが、当初義盛に与することを承諾し、御所北門を固める同心の起請文を書いていたが、合戦直前に三浦義村と弟胤義は「先祖から八幡(源義家)に仕え、恩祿を受け、肉親の勧めに従い累代の主君を射るならば天罰は免れないであろう」と後悔し、北条義時邸に参上して義盛が挙兵したことを告げた。義時は驚きもせず心静かに目算を加えた後、その座を立ったと言う。

 藤原定家は『明月記』嘉禄元年十一月十九日条で義村を「八難六奇の謀略、ふかしぎのものか」と評している。『古今著聞集』には将軍御所、侍の間の上座を占めていた義村のさらに上座に、下総の豪族千葉胤綱が着座し、義村が不快に思い「下総の犬は寝場所を知らぬな」と言うと、胤綱は「三浦の犬は友を食らうぞ」と切り返し、和田合戦での義村の裏切りを批判した逸話が記されている。後に義村の嫡男泰村の代になると五代執権北条頼家による宝治合戦で三浦氏は一族滅亡となる。

 五日、義盛、時兼の所領美作、淡路などの国の守護職と横山庄以下の主な所領が没収され、恩賞に充てられた。また、義盛が侍所別当であった為、後任に義時が任じられた。八日、泰時が恩賞を辞退し、その下文を中原広元に託した。泰時は「義盛は主君に逆心を抱いておりませんでした。ただ父義時を恨んで謀叛を起こし、その時の防戦の為、理由もなく御家人が多く死去しました。そこでこの所領はその勲功の賞の不足に充てるようにして下さい。私は父の敵を攻撃しただけで、ことさら恩賞をうけるべきではありません」と話したと言う。九日、御教所が在京の御家人に送られ、内容は「関東は静まった為、鎌倉に来ることを禁じ、院の御所と守護および謀叛者に備えること」であった。六月二十六日、御所の新造について北条義時、時房、中原広元集まり、衆議された。八月二十日に実朝新御所に入る。この建保の年は地震や火事、そして星の変調が多く見られた。

 建保二年(1214)二月、栄西が宋から持ち帰った茶は、当時、薬として用いられ、実朝に『喫茶養生記』を献じている。五月に十日以上の日照りが続き祈祷を行う栄西に雨を祈るため八戒を守り、法華経を転読され義時以下、鎌倉中の僧俗・貴賎は一身に勤行に真心を尽くした。しかし雨は降らず、実朝は「この秋より、関東御領の年貢の三分の二を免じて、毎年一箇所を順番に免除するように。」命じた。八月には帝が河のほとりを行幸され、四方を拝されたので、たちまち稲妻が光、雷鳴と共に雨が降り五日も止むことは無く、様々な穀物が豊作となった。そのためか鎌倉では激しい雨で洪水になり、大倉御所の総門が崩れた。十一月、六波羅から飛脚が来、京において和田義盛・土屋義清の残党、頼家の子息栄実を擁立して反乱を企てるが、在京していた中原広元の家人に襲撃され栄実(源頼家の息子)はすぐに自殺し、残党は逃亡したと知らせている。建保三年正月六日、入道遠江守十五位嘉平朝臣(北条時政)が北条軍で死去、享年七十八歳であった。時政は追放後、義時をどう見ていたのだろうか、また和田合戦をどのように感じていたのだろうか、そして死の間際、自信を振り返ったのだろうか。この年は平穏に神事、仏事が滞りなく行われた。

 建保四年(1216)三月二十二日に三条中納言(藤原)実宣の妻室が亡くなり、実宣室は北条時政の息女で義時の妹に当たる。義時は御軽服(ごきょうふく:服喪の期間)となった。四月七日、中原広元は大江氏に改姓の勅裁を申請することで内々に京と鎌倉に相談し実朝に申請した。閏六月十四日、広元は、許しを得て七月一日に大江姓となる。八月、実朝はさらに左近近衛中将を兼任し、九月になり実朝は右大将に任じられることを思い、義時は実朝がそれに応じた年齢に達しておらず早急な昇進は過分であるため広元から実朝に諫めてもらうよう依頼する。中納言職は本来摂関家に与えられ、頼朝も与えられ、その跡を継いだ。さしたる勲功もなく昇進することは『臣下は自分の器量を見極めて官職を受ける』ことが望ましく過分に昇進することは「官打ち」と言われ、自らを滅ぼすと言われる。広元は御所に参り実朝に「御子孫の繁栄を望まれるならば現在の官職を辞して、征夷大将軍として徐々に年齢を重ね大将を兼任されるべきです」と諫めるが、実朝は「諫言の趣旨は誠に感心したが、源氏の正統は自分の代で途絶える。子孫が継承することは決してないだろう。ならば、あくまでも官職を帯びて源氏の家名を挙げたい。」と言われた。実朝は子息がおらず、以前に患った疱瘡での高熱が原因か、これから自身の起こる災いを感じていたのかは解らない。十一月二十四日、宋人の陳和卿から「医王山の長老」と言われ、前世に住んでいた医王山に参拝することを望み、唐船造営を陳和卿に命ずる。翌年四月十七日に由比浦に浮かべるが、唐船が出入りできる地形でなく、転覆し、そのまま朽ちてしまった。建保五年(1217)六月二十日、頼家の子息・阿闍梨公暁が京の園城寺から鎌倉に戻り、欠員になっていた鶴岡八幡宮の別当に任じられた。公暁はこの二年ほど明王院僧正公胤の弟子として京都の園城寺で仏教修行を行っていた。十月十一日、阿闍梨公暁が鶴岡八幡宮の別当に任じられ、初めて神拝が行われた。またこの日から千日間の間鶴岡八幡宮時に参籠される。公暁の顔、姿をほとんどの者が知らなかった。十一月八日、大江広元が目を患い、腫物なども重なり、北条義時が見舞うが、十日、広元は命を長らえるため出家し法名は覚阿と与えられた。十七日広元が出家したため陸奥守が欠員となり義時が兼任するよう実朝の推挙があり、十二月十日には、覚阿は病が治ったが視界が暗く、黒白を見分ける事が出来なかった。そして二十四日、義時は推挙された陸奥守を兼任した。

 建保六年(1218)正月二十一日、実朝は権大納言を任じられる。二月十二日、実朝は左大将任官を望み、波多野朝貞が左大将に任じされることを朝廷に申請する為に上洛し、三月十六日、実朝は左大将の任官を受けた。七月九日、義時は夢の中で薬師十二神将の内の戌審が枕元に立ち、「今年の神拝では何事もなかったが、来年の拝賀の日は供奉されぬよう」。義時が目を覚ましてから、不思議に思い、またその意図を図りかねたと言う。義時は、このお告げは自身の安全のための宿願であり、自身の負担により大倉に薬師堂(覚園寺)を建立する事を決めたと言う。侍所所司五名が定められ、北条泰時を別当とした。十月十九日、実朝、内大臣に任じられ、同二十六日、北条政子は従二位に叙された。

 承久元年(1219)正月七日、覚阿(広元)の邸宅以下四十余軒焼失。十五日北条時房の妻室の宿所以下十件が焼失した。二十五日、昨夜、右馬権頭頼茂朝臣が鶴岡宮に参籠し、拝殿にて法施を行った時、一瞬眠ってしまい子供が杖で鳩を撃ち殺し、頼重の狩り衣の袖を討った。目を覚まし不思議に思い、今朝八幡宮の庭で死んだ鳩が見つかり、また不思議に思い占いを行った結果、不吉と出た。二十七日、夜になり雪が降り出し二尺ほど積もり、実朝は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参った。実朝が宮司の楼門に入った時義時は急に真心が乱れ、実朝の御剣役を仲章朝臣に譲り退出し、小町の自邸に戻った。夜になり神拝の儀式が終わり、実朝が退室したところ鶴岡八幡宮別当の阿闍梨公暁が石段の脇の大銀杏の陰から近寄り、剣を取りだして実朝を殺害した。数名の法師が伴ったとも言われ、義時と間違えて御剣役に変わった仲章も討ったとされる。公暁が「上宮の砌(みぎり)で別当の阿闍梨公暁が父の敵を討った」と名乗りを上げた。『愚管抄』では名乗りはせず、公卿らが逃げてくるまで鳥居の外に控えていた武士たちは気が付かなかったと記載されている。その後、隋兵が馬で宮司に駆けつけたが公暁の姿はなかった。そして直ちに雪ノ下公暁の門弟・悪僧が立てこも本坊を襲い、合戦になったが、そこにも公暁の姿はなかった。公暁は実朝の首を持ち後見である備中阿闍梨の雪ノ下北谷の宅に向かい、そこで食事をするときも首を手放さなかったと言う。使者として弥源太兵衛尉(公卿の乳母子)を三浦義村に遣わされ「今、将軍はいなくなった。私こそが関東の長にふさわしい。速やかに計らうように」と伝えている。義村は『吾妻鏡』では「先君の恩を忘れていなかったので幾筋もの涙を流し、まったく何も言う事が出来ず、しばらくして、まずは拙宅にお越しください。ひとまずお迎えの兵士を出しましょう」と申した(引用:現代語訳吾妻鏡、五味文彦・本郷和人編)。その後義村は北条義時に使者を出しこの事を告げ、義時は躊躇せず公卿を誅殺せよと命じた。公暁は父頼家と同様武芸に優れ捕縛することは難しいしいと思われるが、即時誅殺を命じた事に疑問を持つ。義時に走られたくないものがあったのではないかと考えてしまう。三浦義村は一族らを呼び集め簡単には討ち取れないとし、勇散な長尾定景他五名を討手に差し向けた。公暁は義村の使者が遅いため雪の中一人で鶴岡宮の後方の山を登り義村宅に向かうが途中定景と遭遇し討ち手を戦うが定景に討ち取られ、公暁享年二十歳であった。また、義村邸の塀までたどり着き、乗り越えようとした所で討ち取られたとも言われている。実朝の首は『吾妻鏡』は見つからず、実朝の御鬢(びん)を棺の中に納められたと記されている。『愚管抄』では岡(山)の雪の中から実朝の首が発見されたと記されている。源頼朝以来幕府将軍を担って来た河内源氏棟梁の血筋は実朝の暗殺で幕を下ろした。―続く