建仁三年(1203)実朝の兄頼家が病床の折、比企の乱が起こり比企能員の一族、側室の若狭局と頼家の長男・一幡を殺し滅亡させた。実朝は三代将軍(十二歳)となり、兄頼家は北条氏の刺客により暗殺された。また、元久二年(1205)六月、畠山重忠の乱も北条時政・牧御方の讒言により企てられ、北条時政は正子、義時との対立を深めて行く。元久二年(1205)閏七月 牧氏事件において鎌倉追放後、北条義時が二代執権となり、源実朝は北上政子、北条義時の後援のもとで次第に幕政を担うようになる。『古今和歌集』を京から運ばせ和歌の才能も開花させていく。
建永元年(1206)二月二十二日、従四位以下に叙され、十月二十日には頼家の子息・善哉(後の公暁)を政子の命により実朝の猶子(ゆうし)として初めて御所内に入った。善哉の乳母夫は三浦義村で賜物等が献上されている。承元元年(1207)正月五日、実朝が従四位以上に叙され、二月には北条時房が武蔵守に任じられ、平穏な日が続いていた。幕府の政務は各地からの訴状などが多く、裁定されていたが、武士たちは大きな戦もなく気の緩みも生じていた。承元二年(1208)二月十日実朝疱瘡(天然痘)になり大変苦しんだとされ、当時は致死率の高い病であった。二十九日には回復したとされる。その後、疱瘡は瘢痕が残るため、それを恥じて、三年ほど鶴岡八幡宮の参拝を止めている。十二月九日、正四位下に叙される。承元三年(1209)四月十日十三位に叙される。藤原定家に和歌三十首の評を請うている。同十一月十四日、北条義時が、年来の郎従(皆伊豆国の住人で、主達と号した)の中で手柄のあった者を侍に準じると命じられるように望み、内内で審議が行われたが実朝は許さなかった。「そのことを許せば、その者たちが子孫の代になり以前の由緒を忘れ、誤って幕府へ直参を企てる。後の災を招く元であり、許してはならない」と激しく命じたとされる。
建暦元年(1211)正月、実朝、正三位に叙され、美作権守を兼ねる。六月二日、実朝が急に病気となり、大変重い様子であった為、戌の刻に御所の南庭で属星祭(ぞくしょうさい)が行われ、安倍泰貞が奉行した。三日、実朝は病気について夢のお告げがあり、霊験があったと言い、回復した。八月には中原広元病悩に苦しみ様々な祈祷が行われている。八月二十七日実朝は疱瘡を患ってから初めて鶴岡八幡宮に参った。九月十五日、猶子に迎えていた善哉は出家して公暁と号し二十二日に授戒を受けるため上洛した。 建暦二年(1212)五月、北条義時の次男朝時(時政と姫の前の子息)が昨年、京より下向した佐渡の守(藤原)親康の娘で、実朝の御台所の女房に朝時は好きになり恋文を出したが受け入れられず、昨夜に夜が更けた後、秘かに女性の部屋へ行き誘い出したと言う。この事で実朝の怒りを受け、義時も義絶したため、駿河国藤郡に下向した。後の和田合戦と承久の乱で鎌倉に参じ北陸軍の大将として武功を挙げる。十二月、実朝、従二位に叙される。
建保元年(1213)二月十五日、信濃の住人青栗七郎の弟、阿静房安念法師を千葉之介成胤が生け捕り、評議の結果、二階堂行村に叛逆の実否を問い糺すように命じられた。安念法師の白状により、謀叛の者が諸所で捕縛され、二百名に及んだとされる。事の内容は信濃国住人の泉小次郎親平が一昨年より、捕縛された諸者に対し、尾張中務丞が養育している故二代将軍頼家の子息・栄実を大将軍として北条義時を討つ企てであった。捕縛された中に侍所和田義盛の息子義直と義重がいた。二十六日、因人渋河兼守に明日、明け方に誅殺が命じられ、無実の罪に悲しみ思う十首の和歌を荏柄者に奉納した。工藤祐高が奉納された和歌を御所の実朝に持参し、それを読んだ実朝は感心し、兼守の罪をその場で赦された。兼守は天神の加護にあずかり、また将軍の恩志を蒙った。同日、実朝は正二位に叙されている。謀叛人の多くは配流とされたが、泉小次郎親平は一度、見つけられたが逐電し、その後、発見する事は無かった。三月八日、和田義盛は御所に参上し実朝と対面した。実朝は義盛の度重なる勲功に免じ義直と義重の罪を赦された。同九日、和田義盛は木蘭地の水干と葛袴を着た姿で再び一族九十八人を引き連れ御所に参り、甥の胤長の赦免を請いに来た。しかし胤長は今回の首謀者であり、特に策謀を廻らしていたため、赦免されない事の実朝の意向を北条義時が伝え、二階堂行村にその場で引き渡した。その姿は胤長を後ろ手に縛り、一族の列座する前で行われた。和田義盛の逆心はここで決まったと言われる。胤長の荏柄社の前の屋敷は没収されることになったが、義盛の嘆願により許され代官を置いた。しかし義時が和泉親平の乱平定に功績があった金窪行親に拝領させた。
四月十五日、和田朝盛は、実朝の寵愛を受けていたが、他の和田一族は御所に出仕しなかった。朝盛も朝夕の奉仕を止め、蟄居した。その間に浄遍僧都と会い、出難生死の道を学び読経と念仏を務めていた。その日ついに出家を遂げようと、長年の名残を思って御所に参上した。実朝は名月に向かい、和歌の御会を行っていた。朝盛は実朝に和歌を献上し、その、優れた和歌に何度も感心された。朝盛はこのところ祇候していなかった事情を伝え、実朝は主従共に心中のわだかまりを解き、喜びの余り数か所の地頭職を一紙にまとめ記し、直接朝盛に下し文を与えた。月が中天に及んだ頃、朝盛は退出し、帰宅せず浄蓮房源延の草庵に行き、髪を剃り、実阿弥陀仏と号し、そのまま京都に向け旅だった。同十六日、この事を知った父常盛と祖父義盛は朝盛の残した書状を見て、義直に追って連れ帰って来るよう指示した。朝盛は、まれなほど優れた武士で、軍勢の棟梁になるべき者で有った為、義盛が惜しんだためと言われた。また、朝盛が出家したことにより逆反がわかってしまう事を恐れたともいわれる。書状の内容は「叛逆の企ては、今となってはきっとこのままではすまないでしょう。しかしながら一族に従って主君に弓を引き申し上げることはできません。また主君の下に参じて祖父に敵対することもできません。そのため出家して、自他の苦しみや患いから逃れるしかありません。」と記されていた。(引用:現代語訳吾妻鏡、五味文彦・本郷和人編)
五月二日、義直は朝盛を連れて戻り、和田義盛は逆心抑えがたく、決起する。義盛は御所を百五十の手勢を三手に分け御所を急襲。御所内では北条泰時、朝時、足利義氏らは防戦して軍略を尽くしたが、和田常盛の弟・朝比奈義秀は総門を破り南廷で立てこもる御家人らを攻め立て、御所に火を放った。実朝は義時と広元に御供され頼朝の法華堂に避難した。この間、御所内の燃え上がる炎の中で激烈な戦闘が続いた。義秀は特に猛威を振るい、力を示すことは、まるで神のようであった。五十嵐小豊次、葛貫盛重、新野景直、礼羽蓮乗以下数名が討ち取られた。高井重茂(和田義茂の子で義盛の甥)が義秀と戦い、たがいに弓を捨て、馬首を並べ雌雄を決した。両者が馬から落ち、組合、ついに重茂は討たれたが、義秀を馬から取り落したのは重茂だけであり、一族の謀叛に従わず忠臣を示し、命を落としたことに誰もが感嘆したという。北条朝時も太刀を取り義秀と戦ったが、傷を負った。また、足利義氏と出会い鎧の袖口をつかみ、双方馬を走らせ、袖が切れてしまうほどの力であったが、合戦が長引き馬の疲弊も極地に達し、鷹司冠者(藤原朝季)が割って入り、討たれたが義氏は走り逃れた。
日が暮れても戦は続き、義盛はようやく兵が力尽き矢もなくなり前浜に退却した。泰時は旗を揚げ、軍勢を率いて中の下馬橋で陣を固めた。足利義氏、八田知尚、波多野経朝、潮田実季は勝に乗じて凶徒を攻め立てた。翌三日、小雨が降り、兵馬とも疲弊し兵糧も立たれ腰越に向かう。そこで横山時兼と出会い義盛の陣に加わり、軍兵三千騎ほどで新手に立ち向かった。この頃稲村ケ崎周辺に相模・伊豆の御家人たちが集まり、波多野朝貞が実朝の御教書(みきょうじょ)が見せ将軍に味方につけた。義盛は再び御所を襲う為に大軍を浜に向かわせたが若宮大路や各町大路に陣で固められており、突破するすべもなく、由比浦と若宮大路で合戦となった。昨夕からこの昼まで休みなく戦が続き兵士たちは力の限り尽くしたと言う。義清、保忠、義秀の三騎は轡(くつわ)を並べ四方の敵を攻めた。しかし夕刻になり、和田義直(三十七歳)が井具馬盛重に討たれ、父義盛(六十七歳)は非常に嘆き悲しみ、ついに大江能範の諸従に討たれた。また息子の義茂(三十四歳)、義信(二十八歳)、秀盛十五(十五歳)以下帳本七人も共に誅殺された。朝比奈義秀は船を出し安房国に赴いた。それぞれの大将も四散し逃走し勝敗は決した。―続く