建久二年(1191)に源頼朝により、お堂を創建したとされ、毘沙門堂と呼ばれた。『相模風土記』には頼朝が京都鞍馬山寺を詣でた際、行基作と伝わる毘沙門天像を賜りこの地に勧請したとある。毘沙門天は天部である四天王の東西南北の守護するひとりで、仏法を守る御法神あるいは信者を護る守護神である。北を守護する多聞天は毘沙門天とも言い、単独で祀られる事もある。七福神の一人であり、戦勝の神として信仰される。室町時代から再建修理が行われたが明治以降、村の氏神になり、今泉の鎮守社となった。。
祭神:菊理姫之命(ククリヒメノミコト)。 例祭:九月十八日以降の日曜日。 神事芸能:鎌倉神楽、神輿渡御(例祭)大注連祭:(一月八日)「おおしめまつり」。一般には「オオシメヨリ」と言われ、毘沙門天の使いを模した大百足(ハガチ)を模し、神社の守護虫とされる。およそ六メートル注連縄を奉納し、一年の豊作と安寧を祈願する。
大注連は階段を上り境内に入る所に、モチの木にかけられた青竹に付けられ、一年で黒く痛んでいる。大注連祭に新しい大注連を奉納される。注連縄は一般的に紙で作られた短冊の紙垂(しで)を垂らすのが習わしで、この縄の内側が聖域であることを示すように目立たせることが目的であるようだ。白山神社では藁で編んだ百足の足を七・五・三の数に編み、合計十五、そして四垂(よんたれ)と呼ばれる四つの紙垂の間に付け、十二本の足とされる。
当日、午前中は雨で底冷えする中、屋内で大注連を編まれており、お話を伺った。もち米の藁を使用することで藁の色合いを少しでも長く残せるとの事である。しかし、現在は一軒の農家で作られており、農化の数も少なくなり、この複雑な縄を編む技術の継承にも難しいようだ(古来より七五三の数を入れる事により、神域、神聖、祝いの数として使われてきた)。午後十二時を回ると雨が止みだし、空も明るくなり、大注連が取り付けられ、神職による祭事が行われた。
宝物:木像兜跋(とばつ)毘沙門天立像および両脇侍立像(市重文)。木像毘沙門天像(県重文)。京都鞍馬寺より賜ったとされるが平安時代後期の作と考えられ、鎌倉近辺で造立されたものと考えられている。九月の例祭の時に開帳される。
参道入り口には江戸時代天明期の易者で狂歌師の「酔亀亭天廣丸(すいきていあめのひろまる)」生まれは宝暦六年、没年は文政十一年(1756?~1828)で、歌碑が置かれている。天廣丸はこの鎌倉の今泉出身で大変な酒好きで数多くの逸話が残されている。外出時は徳利を話さず、衣服には徳利の紋を着け、著書にも徳利の図を着けたと言われる。港区善学寺、墨田区白髭神社の句碑は徳利が描かれている。白山神社の句碑は徳利のような形をし「くむ酒は これ風流の 眼(まなこ)なり 月を見るのも 花を見るにも 廣丸」。港区善学寺の句碑、「心あらば 手向けてくれよ 酒と水 銭のある人 銭のない人」。酒好きの私にとって、なんと風流な歌と感じざるを得なかった。
参道の中ほどに、かつての別当寺の寿福山今泉寺(こんせんじ)が建ち、雲の間から青空が窺えた。