高徳院のもとは清浄泉寺(廃寺)の支院であった。正式名称は大異山高徳院清浄泉寺と言う。一般的に伝えられているのは、建久六年(1195)源頼朝が奈良の東大寺の再建供養に出向き、奈良大仏を拝観して鎌倉大仏の構想を建てたと言われる。しかし、実現なしえぬまま没したため、侍女であった稲多野局がその遺志を継ぎ、浄光が諸国を勧進して浄財を集めたと言われる。奈良の大仏が勅命により国家事業として作られたのに対し、鎌倉大仏は民衆の浄財を集め造られた。大仏を形作る金銅の成分分析が行われ、当時の銅銭と共通する含有元素割合が確認されている。庶民から集められた銅銭が使われた可能性が高い。
奈良の大仏は「廬舎那仏」(毘廬遮那仏:びるしゃなぶつ)で大乗仏教における仏の一つであり、華厳経において教主で万物を照らす宇宙的存在として扱われる尊格である。密教においては大日如来と同一視される。鎌倉の大仏は「阿弥陀如来」大乗仏教から生まれた阿弥陀信仰で、浄土宗では極楽浄土の仏の本尊である。念仏「「南無阿弥陀仏」を修する者は極楽浄土に往生できることを説き、すべての人を救うために四十八の誓いを立てた仏である。
この高徳院の大仏について資料が少なく、大異山高徳院清浄泉寺の開山・開基は不明であり、多くの不明な点があり、説明するには難解な寺院である為に、二回に分けて記載させていただきます。
『吾妻鏡』に嘉禎四年(1238)三月二十三日に浄光、勧進して、深沢の里に大仏堂建立の事業を行うとあり、着工した記載と、六年後の寛元年(1243)六月十六日に木造の八丈余りの木像阿弥陀仏を納める大仏殿が完成、供養と記している。大仏は当初、木造であった。また源親行作とされる紀行文の『東関記行』仁治三年(1242)にも大仏について記載されている。仏殿は宋朝様式の建築物で、発掘調査などで周囲に瓦が発掘されず杮葺(こけらぶき)きか檜皮葺(ひわだぶき)きであったと考えられる。
宝治元年(1247)台風で倒壊したと言われ、建長四年(1252)に現在の青銅像が鍛造され大仏殿に建立されたと記録に残る。寛永元年後に青銅鍛造が行われていたともいわれ、倒壊後五年で青銅鍛造の像が建立されるのは時間的にも技術的にも疑問が残る。『吾妻鏡』では建長四年(1252)に金銅製の大仏の造営が始まったと記載されるが、木造大仏は金堂大仏の原型であったとする説などがあり、建立発願者、資金や完成時期などの資料は不明である。その後、大仏殿は二度の台風で倒壊し、その都度復興されたが、明応七年(1498)の地震の津波で流されてからは露座の大仏として現在に至っていることが『太平記』と『鎌倉大日記』に記載されている。
大仏を鍛造した人物は建長寺の梵鐘を手掛けた鋳物師大和権守物部重光や大野五郎エ門と丹治久友の名が伝えられているが、原形も含め、創建に係る事情及び資料は不明であるところが多いと言われる。総高十三・三伍メートル、総重量百二十一トンの仏像は宋の影響を受け、当時の工法としては最高の水準で作られている。
今日も老若男女、各国の観光客が多く、喜びを顔に出している。礎石に座り一首読んでみる。
「青空に 座する阿弥陀は 優しげに 人を異にせず 浄土を示す」。おそまつ。