鎌倉散策 光則寺(こうそくじ) | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 鎌倉大仏の高徳院に向かう大仏通りの長谷観音前交差点を過ぎると、すぐ左の住宅地に入って行く。大仏通りから外れると人込みから離れ閑静な住宅地に安堵する。しばらく行くと光則寺の朱の色の山門に付く。鎌倉でも有名な花の寺であり、春、しだれ桜が咲き、桃、海棠(樹齢二百年:市天然記念物)と、桃色の花を鮮やかに咲かせる。海棠は中国では楊貴妃の故事にちなみ「眠れる花」。美人の代名詞ともなった。また季節に合わせ、咲く花々の横に名称を添えて頂いている。日蓮宗の寺院で開基は宿屋光則(やどやみつのり)で、開山は日蓮聖人の弟子の日郎上人である。

宗派:日蓮宗。 山号寺号:行時山光則寺。 創建:文永十一年(1274)。 開山:日郎上人。 開基:宿屋光則。 寺宝:万治四年(1661)銘の木造日蓮上人坐像、寛文十二年(1673)伝日郎入牢七人衆像、天保十五年(1844)大梅院尼坐像等。大梅院日進は江戸時代、光則寺の再建に槌力した。

 

 宿屋光則は五代執権北条時頼の家臣で父宿屋行時と同じく仕えていた。北条時頼の臨終の際、最後の看病を許されたのが得宗被官七人の中の一人である。文応元年七月十六日(1260)、日蓮が『立正安国論』を行時の屋敷を訪ね、寺社奉行であった光則を通じて北条時頼に進献した。日蓮が布教を開始したころの鎌倉は疫病、大地震、豪雨洪水の災害に見舞われ、前年には正嘉(しょうか)の大飢餓が起こり、諸国で多数の死者を出している。この鎌倉での惨状を訴え、災害の起こる原因は世間が真実の教えである法華経に背き念仏宗などの邪法に帰しているからだと訴え、法華経に帰依しなければ外敵の侵略や内乱が起こることを『立正安国論』で予言している。しかし、この進献は黙殺され、念仏宗の物が日蓮の松葉ヶ谷の草庵を襲撃する事件が起こり、翌年弘長元年(1263)、悪口の罪で訴えられ、日蓮は伊豆へ流罪となった。弘長三年(1263)伊豆流罪赦免され、関東での布教活動を行い安房国地頭東条景信に襲撃(小松原の法難)後に鎌倉に戻る。文永五年(1268)一月に蒙古の国書が鎌倉に届き、八代執権北条時宗に八月、十月に宿屋入道(光則)を通して書状を進献している。文永八年(1271)に日蓮が他宗を激しくそしり、松葉ヶ谷草庵に凶徒を集め武器を貯えているとの訴えがあったとして、侍所所司の平頼経により捕縛され、佐渡流罪が下された。配流途中での死罪計画もあったとされ、それが瀧口の法難である。日蓮が佐渡に流罪が決まった際、「日蓮の行くところ常に日郎有り」と言われた高弟の日郎、日真、四条頼基(収玄寺)を宿屋光則が身柄を預かった。光則の屋敷の裏山に日郎を幽閉した土牢がある。日蓮は佐渡に流罪される際、自らの不運を嘆くことなく弟子の身を案じて日蓮が日郎に送ったと言われる手紙「土籠御書(つちのろうごしょ)」がある。宿屋光則は、その日蓮に心打たれ、帰依し、自邸を開山者を日郎として文永十一年(1274)に光則寺を創建した。光則寺の山号寺号はこの宿屋行時、光則親子の名をとって行時山光則寺とされた。

 

 現在の本堂は慶安三年(1650)の建立である。裏山の土牢の傍らに「土籠御書」の石碑が建てられている。境内には宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩碑があり、宮沢賢治が法華経の真髄を説いたものであると言われる。賢治は中学生の頃より法華経を信仰し、文学者、教育者、農業指導者として賢治を支えた一つが日蓮宗であったとされる。

 私が長谷を訪れた際は、いつも光則寺を訪ねる。毎回珍しい花を見せてくれる。ある夏、時計草を見た時は感激した。しかし年の瀬の今はやはり咲く花はなく、悲しい事に秋の台風の影響で土牢に登る事は出来なかった。