鎌倉散策 収玄寺(しゅうげんじ) | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 収玄寺は大仏通り沿いにあり、人の混雑する通りから一歩寺院に入ると静かな小さな寺院を楽しませてくれる。収玄寺は「捨身護法」(見を捨てて法を護る)、「法華式読」(法華経を読み、身をもって実践していく)の霊地として四条金吾の屋敷跡に建立された日蓮宗の寺院である。寺名は四条金吾の法名・収玄院日頼上人から当てられている。

 

 境内に建つ四条金吾邸跡の大きな石碑が目に付く。石碑を揮毫(きごう)したのは日露戦争の海軍連合艦隊司令長官の東郷平八郎元帥である。東郷平八郎はロシアのバルチック艦隊に対し戦勝祈願を博多湾の海上から、東公園にある日蓮聖人像に行うほど、日蓮宗の熱心な信者であった。そのため大正時代に収玄寺として独立した際に信者の業績をたたえるべく石碑に揮毫した。

宗派:日蓮宗。 山号寺号:四条山収玄寺。 創建:文政年間(1818-30)。 開山:妙詣尼 。開基:妙詣尼 開基:圓守院日勇上人。 本尊:久遠の本師釈迦牟仏および、日蓮上人本師釈迦牟尼仏および日蓮聖人尊像の曼陀羅図など。境内は広くないが緑に覆われ銅葺屋根の稜線が美しい。本堂には四条金吾夫妻の像が祀られている。

 

 四条金吾頼基は中務三郎左衛門頼基といい、承久3年(1221)の承久の乱後、父四条頼員の代から北条氏一族の名越朝時(鎌倉幕府二代執権北条義時の次男で名越氏の祖)・光時の父子の重臣であった。名越氏が信濃国伊賀良荘の地頭となり代官として赴任している。

 四条金吾は建長5年(1253)から日蓮の説法に深く帰依し、日蓮宗立宗からの門徒であった。鎌倉武士であった四条金吾は文永八年(1271)九月十二日、日蓮捕縛の報を受け、自らも切腹覚悟で瀧ノ口の刑場(瀧ノ口の法難)に向かったと言い人物である。また、四条金吾は医術にも優れ、鎌倉だけでなく佐渡、見延へと日蓮聖人に従った。佐渡に流された日蓮から『開目抄』が鎌倉の頼基に送られ、門下に広く示す中心的な存在であった。晩年は甲斐国内船(山梨県南部町)の地を与えられ、その地に内船寺を建立、身延山内には端場坊を建立し、四条金吾 の墓は内船寺にある。

 

 妙詣尼(みょうけいに)によってこの地に収玄庵として開かれたが、年月の経過により荒廃し、文政年間(1818-30)に大町安国論寺の圓守院日勇(おんじゅういんにちゆう)上人が再興した。現在の本堂は大正十二年(1923)に光則寺第三十一世信久院日慈上人が再建した。その際に収玄寺と改名し、戦後は収玄寺として独立した。 

 花の寺としても有名で、境内には季節の花木や野草が咲き乱れ、参詣に来る人を楽しませてくれる。この長谷の地は、長谷寺、収玄寺、光則寺と花の寺があり、鎌倉で唯一の国宝の仏像である高徳院の大仏がある。また、バラの季節の春、秋は鎌倉文学館も美しい。しかし、観光客が多く第二の小町通りになり、日中は人は列をなして歩いている。朝一番に回ることで鎌倉らしさを感じ取れる場所である。