高徳院の鎌倉大仏は構造上内部が空洞になっているために胎内に入る事が出来る。「胎内の説明」の案内板によると内部に見られる格子模様は三十回以上(現在では四十箇所)に分けて鋳造されておいる。その鍛造された物の繋ぎ目の部位に応じ、大きく分けて三種の「鋳絡り(いからくり)」と言う溶接方法がとられ、非常に高度な技術を駆使した造形技法であったことがわかる。
現在、大仏に入る拝観料は二十円であり、私のかすかな記憶であるが、顕誉祐天が浄土宗の浄土思想の教えを民衆に伝える為、当時の最低の銅銭である一文銭二枚にしたことにより、現在も十円銅貨二枚となっていると聞いたことがある。もし間違いなら申し訳ございません。しかし、鎌倉唯一の国宝の仏像の中に入れることは、日本人以外、外国の方々の喜びは観光客の絶えないことが物語っている。
この高徳院は極楽寺の忍性(真言律宗の僧)が別当を務め、文永十一年(1274)に鎌倉は大きな飢餓に見舞われ、忍性は飢えに苦しむ人々をこの大仏谷(当時極楽寺から高徳寺周辺を地獄谷と称された)に集め、五十余日にわたり粥を施したと言われる(この忍性は私が最も興味を持つ僧であり、鎌倉に居住した理由でもある。大和国(現奈良県)で生まれ、真言密教から戒律授受、聖徳太子親交を受け継ぎ、鎌倉での宗教活動以外に多大な貢献をしている。そして国に帰ることなく鎌倉で没している。日蓮聖人と同時期の僧であり、今後極楽寺の紹介において詳しく述べたいと思う)。また、建長寺の管理となった時期もあり、それまで真言宗や禅宗の色彩が強い高徳院『新編鎌倉志』であったが、江戸時代に芝の増上寺の顕誉祐天が露座になった大仏の修復を発願し、称徳二年(1712)江戸の商人、野島新左衛門泰祐らの支援により中興をなした。その後浄土宗の寺院となる。一時期材木座の光明寺の奥の院になったこともある。
回廊の北側の背後には閑静な庭園になっており、そこに佇む観月堂がある。中世の建築資料として貴重なものである。長く朝鮮に君臨した李王朝のソウルの朝鮮王宮にあったもので、大正十三年(1924)杉野喜精氏により寄贈。月宮殿(十五世紀中頃の建物)を移築したとされ世界的にも珍しい建物である。堂内に徳川将軍秀忠が寄進したとされる聖観音像が安置されている。鎌倉三十三観音霊場の第二十三番である。
観月堂の右に与謝野晶子の碑が建てられている。「鎌倉やみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」。高徳寺の大仏は阿弥陀如来で、釈迦如来ではないという間違いの句として有名な話である。与謝野晶子は大阪府の堺の生まれで、関西人特有のしゃれが含まれているのではないかと何時も思う。
大仏を囲む回廊の一角に全長一・八メートルの大きなわらじが掛けられている。これは秋の豊作のお礼に茨木県の子供たちから送られたものだ。当初は年一回であったが近年三年に一度、送られるようになった。阿弥陀如来の大仏様が全国を巡ってもらいたいという願いから、わらじを作り送られている。私は大仏さまが、夜な夜な大船の観音様にお会いに行くためのわらじと思っていた。
この高徳院の大仏については、これだけの建造物でありながら、不明な点が多く以前から資料を集め、鎌倉の寺社を半年強の期間をかけ紹介してきましたが、非常に難しく、自分なりに悩み記載させていただきました。長谷の寺院は取っておこうと考えていたのですが、長谷の歳の市を機に、記載する事にし、鎌倉唯一の仏像国宝と言う点もプレッシャーになっているかもしれないが、まとめさせていただきました。不十分な点もあると思いますが、何分御考慮頂きたく思います。