鎌倉に来迎寺の名称を持つ寺院は二つある。一つは西御門の満光山来迎寺、創建は永仁元年(1293)で、もう一つは材木座にある随我山来迎寺である。創建は:建久五年(1194)でどちらの寺院も宗派は時宗藤沢清浄光寺末である。この材木座の来迎寺は、元は源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔う為に建立した真言宗能蔵寺があった。開山の音阿(おんあ)上人が時宗に帰依したため、建武二年(1335)に改宗し、寺名を来迎寺に改めた。鎌倉三十三観音霊場第十四番札所である。
宗派:時宗藤沢清浄光寺末。 山号寺号:随我山来迎寺(ずいがざんらいごうじ)。 創建:建久五年(1194)。 開山:音阿上人。 本尊:阿弥陀三尊で義明の守り本尊と言われる阿弥陀三尊像であり、運慶の作とされている。 寺宝:本尊木造阿弥陀如来三尊立像、義明と多々良三郎(義明と共に十七歳の若さで石橋山の合戦に加わり討たれる)の五輪塔、応永・正長年銘などの宝篋印塔、子育て観音像がある。この寺の子育て観音像は知恵のある良い子を育てると言われ、庶民の寺としても親しまれている。
この寺院には三浦大介義明の墓とその家臣の百余基の五輪塔が並び残されている。義明は三浦半島の衣笠城主で、本来は桓武平氏良文流(坂東八平氏)で家祖は平忠通であり、源頼光に従い三浦姓を名乗る。前九年の役で忠通の子為通が源頼義に付き武功を挙げ、頼義から相模の国三浦の領地を与えられ、源家累代の家人で頼朝旗揚げの時から支えた。頼朝が石橋山の敗戦で安房に逃れる。その際、三浦一族がこの衣笠城で食い止め、時間稼ぎを行う。治承四年(1180)八月二十六日畠山重忠の軍勢は江戸太郎重長を含め武蔵の郎党数千騎が攻めた。三浦次郎義澄や和田太郎義盛などが守備に就き、力尽きて夜半城を跡にした。義明は前もって場内に多勢がいるふりをし、義澄以下の頼朝の家人に退却する旨を伝えていた。二十七日の激戦を戦い、河越太郎重頼、江戸太郎重長らにより討ち取られた。八十九歳で戦死する。義明の言葉に「幸いにもその貴種再興の時に巡り合う事が出来た。こんなに喜ばしいことがあるだろうか。生きながらえてすでに八十余年。これから先を数えても幾ばくも無い。今私の老いたる命を武衛(源頼朝)に捧げ、子孫の手柄にしたいと思う。汝らはすぐに退却し、(頼朝の)安否をおたずね申し上げるように。私は一人この城に残り軍勢が多くいるように重頼に見せてやろう」。(引用:「現代語訳吾妻鏡1頼朝の挙兵」五味文彦・本郷和人編)頼朝は、義明が十七回忌まで生きたものとするよう伝えたため、義明は「百六つの義明公」と呼ばれている。義明の武功をたたえるために、境内には義明の木像五輪塔墓もある。
後、敵対していた畠山重忠(坂東八平氏の一族)は頼朝に臣従し、治承、寿永の乱で先陣を務め知勇兼備の武将として幕府創建の巧臣として重きをなした。武勇の誉れ高く、清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。しかし、元久二年(1205)六月二十二日に初代執権北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ、重忠の嫡子重保が由比ヶ浜に呼び出され、時政の意を受けた三浦義村に打たれた。その事を知らずに重忠は平服の百三十騎で鎌倉に向かった。武蔵国二俣川で待ち伏せをしていた義時の大軍が自身に向けられていることを知り、奮戦するが、自害する。重忠の首を持ち帰った義時は時政に涙を流し重保の謀反でなかった事を主張した。これを畠山重忠の乱と言う。この後、北条正子と義時は謀略を企てた父時政と後妻牧の方を伊豆に流し、義時が二代執権になり北条執権体制を固めていった。
畠山重保を由比ヶ浜で、初代執権北条時政の指示ではあるが、だまし討ちにした三浦義村は三浦義明の孫で、先に述べた衣笠城での遺恨があったのであろう。この三浦一族も宝治合戦で滅亡する。この鎌倉の地は武士の譽とした話と、憎悪に満ちた謀略が巡る地でもある。佩かない話である。