妙長寺は正安元年(1299)に建立され、もともとは由比ヶ浜の沼浦にあったが、津波の被害を受けたために堂宇が倒壊し、現在の材木座に移転されたと伝わる。沼浦とは伊豆流罪になった日蓮上人の船出の場所と言われている。日蓮は伊東沖の小岩「まな板岩」に降されたと言われ、その日蓮の命を救った漁師舟守弥三郎の子(一説には本人)であり、後に鎌倉を訪れた彼は沼浦に一堂を建立した。これが妙長寺の始まりと言い、開山は日實上人である。
明治十一年(1878)建立の鱗供養塔は、鎌倉、逗子、三崎の漁師たちの手により、建立された。古くから庶民にしたしまれた寺院である。以前は一般拝観不可であったようで、今は山門前には寺院、庭の整備の為の志納の箱が置かれていた。
宗派:日蓮宗。 山号寺号:海潮山妙長寺。 創建:正安元年(1299)。 開山:日実上人。 開基:日実上人。 本尊:三宝祖師。
『高野聖』などで知られる作家・泉鏡花(尾崎紅葉に師事)が、明治二十四年(1891)七月から八月のひと夏をこの寺院で過ごした。その時のことを小説『みだれ髪』(後に『星のあかり』と改題)に書いている。「…もとより何故といふ理はないので、墓石を倒れたのを引摺寄せて、二ッばかり重ねて臺にした。台其の上に乗って、雨戸の引き合わせ上の方を、ガタガタ動かして見たが、開きそうにもない。雨戸の中は、僧衆西鎌倉乱橋の妙長寺と畏怖、法華州の寺の、本堂に隣りあった八畳の、横に長い置き床の附いた座敷で、向かって左手に葛籠、革鞄などを置いた際に、山下と言う醫學生画、四六の借る蚊帳を津って寝ているのである。・・・(中略)妙長寺に寄宿してから三十日ばかりになるが、先に来た時とは浜が著しく縮まって居る。町を離れてから波打ち際まで、凡そ二百歩もあった筈なのが。白浜に足掛けたと思うと、早や爪先が冷たく浪の先に触れたので、昼間は鉄の鍋で煮上げたような砂が・・・」。私が大学生の頃に『高野聖』、『夜叉が池』、『外科室』などの作品を読み、日本的な幽玄性を秘め、鏡花自身のロマンティニズムがあり、非常に面白い作品だった。鏡花が幼少の折、母の産後の死別と共に摩耶信仰を生涯信じ続けた。彼の逸話の中に大変な潔癖症と言われ、この作品でも山下と言う醫學生を自身に置き換え表現しているようでもある。またこの作品は明治期のこの地を描写している点、貴重な作品でもある。この鎌倉で泉鏡花を思い出すとは不思議なことであり、鏡花自身の作品も不思議な作品である。
山門の手前には日蓮上人像が建てられ降り、伊豆に流される時の表情が刻まれているように思え、この際に日蓮は宝塔偈(ほういんけい)を唱えられたと言われる。鎌倉には日蓮宗の寺院が多く、日蓮聖人像は多くあるが、私は妙長寺のこの像が好きだ。また、境内には、沼浦に創建した日實上人とその後四十二世までの住職名が刻まれた石板があり、七百年以上の重みを感じる。