鎌倉散策 補陀洛寺(ふだらくじ) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 寺名の補陀洛はサンスクリット語で、「ポータカラ」から漢字を当てており、観音菩薩が住む南海上の山を意味する。漢字の当て字で補陀洛とされているが、「ほだらく」ではなく、「ふだらく」である。山号寺号は:南向山帰命院補陀洛寺(なんこうざんきめいいんふだらくじ)で、古義真言宗の京都大覚寺派の寺院である。もとは七堂伽藍を持つ大きな寺院であり、石門柱の横に「源頼朝公御祈願所 補陀洛寺」と彫られた石碑が並ぶ。室町期の文和年間(1352~56)に鶴岡八幡宮の僧、頼基律師が復興したとされる。

 

 開山は文覚上人と伝えられている。この文覚上人は、もとは武士で、誤って渡辺渡(わたなべわたる)の妻、袈裟御前(けさごぜん)を殺してしまう。その罪を償う為、出家して熊野の山中で苦行を積んだと言われている。その後、京都神護寺の再興に尽力したが、後白河天皇に荘園の寄進を迫ったことがとがめられ、伊豆に流された。そこで頼朝と出会い、親交を深めたと言われ、文覚は頼朝に平家打倒の挙兵を促した人物でもある。頼朝が鎌倉に入り、養和元年(1181)に創建したと伝わる。『新編鎌倉志』に、勧進帳の初めと終わりが破られ、作者も年号も不明だが、開山は文学上人で、文覚上人が鎌倉に来た時、頼朝が近ごろの恩に報いようとこの寺を建て、その後鶴岡八幡宮の僧、頼基律師が中興したと記載されているとの事。

宗派:真言宗大覚寺派。 山号寺号:南向山帰命院補陀洛寺。 創建:、養和元年(1181)。開山:文覚上人。 開基:源頼朝。 中興:鶴岡八幡宮供僧頼基律師。 本尊:十一面観音像。 寺宝:木造十一面観音菩薩立像、木造不動明王像(平安期作)、木造薬師如来像及び両脇侍菩薩立像、秘鍵大師座像(永和三年:1377銘)、文覚上人書とされる源頼朝の位牌、頼朝治作とされる頼朝像、木造文覚上人裸形像、平家の赤旗。

 

 木造不動明王像は平安期作とされ智証大師の作とも伝えられ、平家打倒を祈願されたと伝わる。薬師如来像は行基作、日光・月光菩薩は運慶作、地蔵像は弘法大師作、そして平家の赤旗は文治元年(1185)平家の総大将平宗盛の物であったと伝えられている。

 補陀洛寺は鎌倉三十三観音霊場第十七番札所であり、材木座の町の中に佇む小さな寺院であるが、これほど多くの寺宝を有する珍しい寺院である。しばしば竜巻にも襲われ、別名竜巻寺とも呼ばれている。また明治初年の火災で諸堂が焼失するが多くの寺宝が運び出され無事であったとの事である。明治七年(1874)に海傍(かいぼう)学舎と言う小学校の教場となり、明治九年(1876)には材木座学校と呼ばれた。

 

 大阪に住んでいた私は、よく京都に行き、寺社を巡った。京都左京区静市市原に同名の補陀洛寺がある。鞍馬に行く叡山電鉄市原駅近くに閑静で趣のある寺院である。小野小町の終焉の地として、通称小町寺と知られ、天徳三年(959)の創建の天台宗寺院である。奥州の藤原基衡が毛越寺(もうつうじ)の吉祥堂建立の際の千手観音を、こちらの千手観音像を写したと『吾妻鏡』に記載されている。