鎌倉散策 教恩寺(きょうおんじ) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 教恩寺は山号寺号が中座山大聖院教恩寺と言う時宗の寺院である。鎌倉に時宗の寺院は少なく、十二所の「光触寺」、西御門「の来迎寺」、山ノ内の「光照寺」、材木座の「向福寺」「来迎寺」、大町の「別願時」と「教恩寺」の七寺院である。もともと、教恩寺は小田原北条氏の三代、北条氏康が光明寺境内に知阿(ちあ)を開山とし建立されたと言われ、この地にあった光明寺末寺の善昌寺が廃寺になった事から延宝六年(1678)、貴誉(きよ)上人により、この地に移った。以前の山号は宝海山であったがこの地に移り、この地が通称中座であったので中座山と改めた。

宗派:藤沢清浄光寺末(とうたくせいじょうこうじまつ)。 山号寺号:中座山大聖院教恩寺。 

創建:延宝六年(1678)。 開山:知阿上人。 開基:北条氏康。 本尊:阿弥陀如来三尊。

寺宝:本尊木造阿弥陀仏三尊像(県重文)、秘仏聖観音菩薩立像。

 

 教恩寺と平重衡とゆかりのある寺院であり、平重衡は源平合戦で、東大寺、興福寺を焼き払った平清盛の五男である。門前の案内板に書かれた分を引用して紹介させていただく。

「平重衡とのゆかりがある寺院で、平清盛の五男で、自らの容姿を牡丹の花にたとえ優しく爽やかで、しかも凛々とした武勇を誇る平家の副将軍であった。重衡は一の谷の戦いで敗れ、撤退の祭、梶原景時に捕らえられ、鎌倉に護送された。頼朝の尋問に対しても武将らしく堂々たる態度と、優雅な物腰の立派な人柄は、頼朝を感嘆させ、捕らわれた身であるが特別な待遇を受けた。頼朝の仕女である千手を侍らし酒宴を許されたという。この酒宴が縁で重衡と千手の二人は恋に落ち、重衡が護送されるまでつかの間、癒された日を過ごすことができたと言われる。やがて重衡は奈良へ護送され文治元年(1185)六月二十三日、木津川のほとりで斬首処刑された。その後の千手の足取りは定かではなく、悲しみのあまり床に伏し、そのまま生涯を閉じたとも、また出家したともいわれ、儚い悲恋の逸話があり、その酒宴を催した場所が教恩寺と伝わっている」

 

 本堂に安置されている阿弥陀如来像は鎌倉時代前期の物で運慶作と伝えられている(県重文)。頼朝が重衡に一族の冥福を祈るよう与えた像とされ、重衡も厚く信仰したという。清盛の命により東大寺・興福寺の南都焼討を行ったことにより南都衆から深く恨みを買うことになった。南都衆がその引き渡しを求め、文治元年(1185)六月二十三日、木津川で東大寺の使者に引き渡され即刻斬首された。重衡享年二十九歳であった。また、吾妻鏡に文治四年(1188)四月二十五日に亡くなったことが記載されている。「廿五日 辛卯 今曉千手前卒去す〔年廿四〕。その性はなはだ穏便にして人々の惜しむところなり。前故讃井中将重衡参向の時、不慮に相馴れ、かの上洛の後、恋慕の思い朝夕休まず。怨念の積もるところ。もし発病の因たるかの由、人これを疑うと伝々。」『全譯吾妻鏡』第二巻(新人物往来社刊)引用。吾妻鏡で女性の記述を記すことは珍しく、彼女の人柄の良さを表したと考える。

 

 鎌倉の下町情緒を残す鎌倉葉山線の大町四つ角の手前を北に入ると住宅街の中に鎌倉らしき、ひっそりとした小さな寺院の山門に行き当たる。山門の正面には十六羅漢・裏面に牡丹の彫刻が施されており、春になると山門をくぐったところにある桜の木が鮮やかに花を咲かせる。手入れが行き届いた境内には花が咲き静かな時間を与えてくれるだろう。現在、本尊阿弥陀如来像は横浜の美術館に展示されているとの事で、十二月初旬にはお戻りになると言う。「良い寺院である」と胸の内に秘め、また時期を改め、桜の季節にでも伺いたい。

 

教恩寺(きょうおんじ) 鎌倉市大町1-4-29 ☏0467(22)4457 拝観時間十時から十五時。拝観料志納。鎌倉駅東口徒歩七分